作曲家の多田武彦先生といえば、その作品は男声合唱が大半なので、女声合唱、混声合唱を楽しまれている方にはあまり知られていないかもしれません。しかし男声合唱においては重要なレパートリーとして広く親しまれており、知らない者はいないと言っても良いでしょう。一方その音楽的価値についての評価は様々です。多田先生はアカデミックな音楽の専門教育を受けたわけではなく、銀行員として就職から定年まで仕事を全うしているので、日曜作曲家・素人作曲家として捉えられてしまうのは仕方ないことだと言えましょう。しかしその半面、多田作品の魅力に取りつかれている者が多くいるのも事実です。「タダタケを歌う会」という団体が存在しているほどです。
まずメロディーが美しい。歌いたいと誘われる旋律が目白押しなのです。そして非常に良くハモる。多田作品特有のハーモニーの魔術です。とりわけ男声合唱作品の密集した和音と倍音が一層引き立つのです。また、選ばれている詩がとても魅力的です。多田作品によって詩や文学に開眼した男声合唱愛好者が多くいることでしょう。私もその一人です。例えばこの『木下杢太郎の詩から』という組曲が無ければ、恥ずかしながら、私は木下杢太郎という名前そのものはもちろん、その名が東京帝国大学医学部卒の医師のペンネームであることも、知ることはなかったと思います。
関西大学グリークラブの『木下杢太郎の詩から』(改訂版初演)の演奏を聴き、これこそ多田作品の魅力の神髄であると深く感銘を受けました。数ある多田作品の中で、当組曲は傑作の一つに数えて良いと思います。また、関西大学グリークラブの演奏は柔らかなとても良い声質で、心地よくハモっており、「タダタケの音」がしています。木下杢太郎のメロディや言葉のフレージングも良くこなれていて、詩の大きな魅力である東京の情緒も深く感じます。歴史的な名演奏・快演と言えるでしょう。
録音を聴くと、当時は少なくとも50人程度のメンバーがいそうです。関西大学グリークラブといえば、先日活動停止してしまった法政大学アリオンコールと長く交歓演奏会を開催してきました。また、関西六大学合唱演奏会のメンバーでしたが(当録音も1983.11.3 第10回関西六大学合唱演奏会のもの)、関西六大学合唱演奏会は消滅して久しく、関西大学グリークラブも現在は十数人台前半での活動になっているようです。過去にこれほどまでの演奏をした団体が、苦境に喘いでいるのは口惜しいことです。なんとか踏みとどまって、復活あるいは新生を遂げることを祈ってやみません。