《第151回定期演奏会を前に――「ことば」を歌うということ》
慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団、第151回定期演奏会を前に、少し考えていることがあります。還暦を過ぎたひとりのOBとしての、個人的な問いです。
今回、福永一博先生の指揮で、田畠佑一作曲、広瀬大志の詩による《ミステリーズ》が委嘱初演されます。また、田畠佑一《狂恋の一滴~恋の色彩 抄~》の男声版も委嘱初演される予定です。
《狂恋の一滴》の原曲《恋の色彩》は、第33回朝日作曲賞を受賞した混声合唱組曲です。『古今和歌集』から29首の恋歌を選んで作曲され、その後、曲順も組み替えながら、コンクールで演奏可能な約8分半に再構成されたのが《狂恋の一滴》です。
2024年、この曲を自由曲として演奏したCombinir di Coristaは、全日本合唱コンクール全国大会で金賞・文部科学大臣賞を受賞しました。YouTubeで公開されています。
※この音源は全国大会ではなく、同年の東京都合唱コンクールでの初演時のものです。
聴けば、コンクールで強い作品であることはよく分かります。しかし、コンクールでの評価と、作品そのものの芸術的価値は、同じものではありません。
もちろん、コンクールで高く評価される作品には、それだけの技術的な強さがあります。
短時間で音色が変わる。
技巧が見える。
速度が変わる。
劇的なコントラストがある。
一聴して「すごい」と思わせる。
《狂恋の一滴》は、そういう意味では、コンクールという場で非常に強い効果を発揮する、よくできた作品だと思います。「カッコいい」という感想が出るのもよく分かります。
私は、聴きながら強い違和感を覚えました。
少なくとも、私がワグネルで教わった「歌」は、ことばと音楽が不可分に結びついたものであり、ことばを文学として受けとめることが、歌うための前提でした。
使われている和歌を原歌と照合してみると、私が確認できた範囲では、一首をそのまま音楽にしているわけではありません。
句の順序を入れ替える。
ある語を反復する。
一首を分解する。
異なる歌を接続する。
もちろん、古典を改変してはいけない、と言いたいのではありません。
詩を解体することも、ことばを反復することも、複数のテキストをコラージュすることも、現代の表現として十分あり得るでしょう。千年前の古典を神棚に載せるのではなく、壊し、組み替え、現代の感情の中へ投げ込む。それも一つの芸術上の方法でしょう。
それでも、私は問いを持ちます。
なぜ、『古今和歌集』でなければならなかったのでしょうか。
和歌は、美しい単語を五七五七七に並べたものではありません。
三十一音の中で景色が現れ、意味が移り、掛詞や縁語が働き、最後の一句によって、それまで見えていたものの意味まで変わる。
一首全体が、一つの構造をもった文学作品です。
そして、それぞれの歌には、それぞれ違う恋があります。
待つ恋。忍ぶ恋。逢えない恋。人に知られまいとする恋。心変わりを恐れる恋。死を口にする恋。
それらを分解し、強いことばを取り出して、反復し、重ね、激しい音響の中へ配置してゆく。
一首ごとに異なっていた恋が、〈恋〉という一つの記号へ変わっていないでしょうか。
私には、《狂恋の一滴》の中で、ときに『古今和歌集』が音楽と対話する相手ではなく、「ことばの素材庫」として扱われているように聞こえました。
ならば、私はさらに問いたい。
古今和歌集を壊すことによって、古今和歌集をそのまま読んだときには存在しなかった、何かが生まれたのでしょうか。
そこが、私にはまだよく分かりません。
そして、第151回定期を前に、私がいちばん考えているのはここです。
なぜ、この作品をワグネルが歌うのでしょうか。
「コンクール作品だから歌うべきではない」と言いたいのではありません。
むしろ逆です。
順位を争わない定期演奏会でワグネルが取り上げるなら、そこにはコンクールとは違う意味があるはずです。
8分半で審査員を圧倒する必要のない場所で、《狂恋の一滴》はどのような作品として立ち上がるのでしょうか。
『古今和歌集』が、こちらまで届いてくるのでしょうか。
そして、もう一曲の委嘱初演《ミステリーズ》。
これはまだ誰も聴いていません。
広瀬大志の詩が、田畠佑一によってどのような音楽になるのかも分かりません。だから、今の段階で評価することはできません。
ただ、《狂恋の一滴》を聴いたあとだけに、一つだけ危惧があります。
広瀬大志の詩は、思潮社の『現代詩文庫 広瀬大志詩集』で「詩のモダンホラー」と紹介されています。一語が入り込むことで、それまでの日常が別の相貌を見せるような、強烈な文学世界です。そのことばもまた、《狂恋の一滴》と同じように、意味を持ったことばとしてではなく、記号化され、強烈な音響を作るための「素材」として扱われるのではないか。
ことばが音楽を動かすのか。
それとも、音楽が必要とする場所へ、ことばが配置されるのか。
第151回定期演奏会。
当日はぜひ私の危惧を裏切ってほしい。
技巧の凄さだけではなく、音が消えたあとに、何が残るのか。
「カッコいい」という印象だけなのか。
それとも、「歌」のことばが、「素材」ではなく、いつまでも頭から離れなくなるのか。
「ああ、このことばを歌うためには、この音楽でなければならなかったのか」
その答えを、演奏そのものから聴きたいと思っています。
<福永 一博先生からのコメント>
今回の選曲に関する問題提起をありがとうございます。ことばと音楽の関係について、せっかくなので、私も少し思うところを述べさせていただければと思います。
私も、音楽とことばの関係は不可分であると考えています。しかし、それは音楽がことばに従属するという意味ではありません。詩と音楽は、どちらかが一方に従属するのではなく、対等な関係にあると考えています。音楽は単に詩の意味を伝えるための手段ではなく、詩と同じように、それ自体が独自の表現力を持っています。そして、両者が結びつくことによって、詩だけでも音楽だけでも生み出すことのできない、新しい芸術表現が生まれ得るのだと思います。
兒玉さんは「ことばが音楽を動かすのか。それとも、音楽が必要とする場所へ、ことばが配置されるのか」と仰いますが、この二つは必ずしも対立するものではないと思います。
音楽の歴史を振り返れば、ことばの意味を音楽によって豊かに表現する試みがある一方で、ことばそのものの持つ響きやリズムを音楽の素材として扱う試みも数多く存在します。例えば、20世紀の作曲家ルチアーノ・ベリオは、『シンフォニア』において、テキストを分解し、その音響的な可能性を追求することで、言語と音楽の新たな関係を切り拓きました。ベリオ自身、テキストがどの程度聞き取れるか、あるいは十分に聞き取れないという経験さえも、作品の音楽表現に不可欠なものとして捉えています。
ことばを音楽の素材として扱うことは、必ずしも原詩を軽視することではありません。なぜなら、ことばには意味だけでなく、音韻やリズム、響きといった音楽的な要素も内在しており、それらに着目することもまた、ことばそのものと深く向き合う行為だからです。むしろ、そうした可能性を引き出すことによって、原詩だけでは生まれ得なかった新たな表現を創造することもできるのだと思います。
テキストを解体し、再構成することで何が生まれるのか、という兒玉さんの問いは重要だと思います。ただ、その答えを探る際には、音楽との結びつきによって、ことばがどのような新しい表現を獲得しているのかという視点も大切にしたいと考えています。
今回の定期演奏会においても、ことばと音楽の関係を深く掘り下げ、ことばと音楽が結びつくことで生まれる、豊かな表現の可能性を感じていただけたら嬉しく思います。
<私からの返信>
福永 一博 先生
私のような一OBのアマチュアに、これほど真摯にご回答くださり、ありがとうございます。
先生のお返事を拝読し、「ことばと、それに付される曲とは対等である」という基本的なところでは、むしろ認識が一致しているのだと思いました。以下、議論を明確にするため、便宜上、ことばに付される音楽部分を「曲」、ことばと曲とが結びついて成立する全体を「歌」あるいは「音楽」と呼ばせてください。
先生がお書きになった、「両者が結びつくことによって、詩だけでも音楽だけでも生み出すことのできない、新しい芸術表現が生まれ得る」というお考えには、「音楽=曲」であれば、私もまったく異論がありません。
ただ、先生のお返事を読んで、私たちは「対等」という言葉の意味について、少し違うところに立っているのではないかと思いました。
私は、「ことばが音楽を動かすのか。それとも、音楽が必要とする場所へ、ことばが配置されるのか」と書きました。先生は、この二つは必ずしも対立しないとお書きになりました。
しかし、少なくとも「文学と曲の対等性」という観点からは、私は前者に対等性を見ますが、後者には対等性を認めにくいと考えています。
まず前者について。詩であれ和歌であれ、文学作品は、それ自体ですでに一つの完成した芸術作品です。作者は、どのことばを、どこに、どのように置くのかを選び抜いて作品を作っています。
木下順二が團伊玖磨による『夕鶴』のオペラ化に際して、台本を一字一句変えないことを条件とした話は有名です。
私は、そこまで厳密に考えているわけではありません。すでに書いた通り、改編もコラージュも一つの芸術的方法として当然あり得ると思っています。
ただ、完成した文学作品を解体し、ことばを記号化すれば、少なくとも原作品が持っていた構造の一部は失われます。
先生がおっしゃるように、そこから「詩だけでも曲だけでも生み出すことのできない、新しい芸術表現」が生まれることはあるでしょう。
しかし私は、その「獲得」だけでなく、それと引き換えに何が「喪失」されたのかも、同じ重さで考えたいのです。
解体による喪失を上回るものが生まれるのであれば、そこには、その文学作品を解体してまで曲と結びつけるだけの「理由」あるいは「必然性」が必要なのではないか。
私はそう考えています。
一方で、先生がお書きになった通り、「ことばには意味だけでなく、音韻やリズム、響きといった音楽的な要素も内在して」います。文学作品がもともと持っている意味、リズム、響き、時間の流れに曲が応答し、両者がそれぞれの自律性を保ちながら結びつく。私が「ことばが音楽を動かす」と書いたのは、そういう意味です。
これは、曲が文学に従属するということではありません。ことばと曲が、それぞれ自分の構造を保ったまま出会い、その結果として「歌」という第三の芸術が生まれる。私は、それが「対等」ということなのだと思います。
一方、「音楽が必要とする場所へ、ことばが配置される」場合はどうでしょう。
曲の側が必要とする構造に合わせて、一首を分解し、句を入れ替え、反復し、別の歌と接続する。そのとき文学がもともと持っていた構造は解体され、曲の構造の中へ再配置されます。
以前、私は「作曲家の構造支配性」という、いささか身の程知らずなことを書いたことがあります。私が問題にしたかったのは、まさにこの点です。
曲が文学の構造を解体し、自らの構造の内部へことばを配置するのであれば、そこでは曲が文学を支配する関係になってはいないか。その状態を、私は「文学と曲が対等」とはなかなか考えられません。
ベリオのように、テキストの解体そのものから新しい芸術を作る立場があることは理解しています。その美学を否定するつもりもありません。ただ、私はそこでは先生とは少し違う立場にいるようです。
そして結局、《狂恋の一滴》について私が知りたいのは、最初の投稿と同じところへ戻ります。
『古今和歌集』を解体することによって喪失されたものを上回る、何が新しく獲得されたのか。そして、その新しいものは、『古今和歌集』でなければ生まれ得なかったのか。
そこを私は、本番の演奏から聴き取りたいと思っています。
《ミステリーズ》については、もちろんまだ何も判断できません。
先生のお返事をいただいたことで、私自身も、「ことばが曲との結びつきによって何を新しく獲得するのか」という視点を加えて聴いてみたいと思いました。
これ以上掘り下げれば、美学そのものの議論になりそうです(笑)。
私の問題提起にこれほど丁寧に向き合ってくださったことに、改めて感謝申し上げます。
第151回定期演奏会を、楽しみにしております。
<福永 一博先生からの返信>
こちらこそ、丁寧なお返事をありがとうございます。
「獲得」だけでなく、その過程で何が「喪失」されたのかにも目を向けるべきだというご指摘は、大切な視点だと思います。原詩の解体によって失われるものがあることは確かです。一方で、そこで生まれる新しい表現と、失われたものとを単純に比較することは難しいのではないかと思います。私は、新たに成立した芸術作品そのものの価値を考えたいと思います。
また、詩と音楽の対等性は、必ずしも両者がそれぞれの元の構造を保持することによってのみ成立するものではないと考えます。音楽が詩によって変容することもあれば、詩が音楽によって変容することもある。私はその変容が、必ずしも兒玉さんの仰るような「一方による他方の支配」を意味するものではないと思っています。例えば作曲家があることばを原詩にない形で繰り返し用いることも、詩の解釈に基づく創造的な行為であり得ます。したがって、テキストの構造が変更されているということをもって、音楽がことばを一方的に支配しているとは言えないのではないでしょうか。
私は演奏家なので、兒玉さんの問題提起に対する私なりの答えを、演奏を通してお伝えできればと思っています。本番を楽しみにしていただけたら嬉しいです。
こうして音楽とことばについてあらためて深く考える機会をいただけたことに感謝いたします。
<私からの返信>
再度のご丁寧なお返事をありがとうございます。先生との美学上の違いを感じると同時に、私自身も認識を深めることができました。
私は現在、長年務めた三田会(OB会)の役員を降り、OB合唱団からも離れております。今の私にできることは、一人の聴衆として真摯に聴くことだと思っています。
これからも、一人のOBとして慶應ワグネルを見守り、支えていきたいと思います。
第151回定期演奏会で、先生の答えを客席から聴かせていただくことを楽しみにしております。


