実質的に木下保先生ご逝去後の最初の定期演奏会となる慶應ワグネル第108回定期演奏会(1983)で、畑中良輔先生は第96回定期演奏会の『月光とピエロ』以来12年ぶりに日本語曲を取り上げました。実はこの『中勘助の詩から』とともに『柳河風俗詩』『草野心平の詩から』の計3組曲を東芝EMIで録音する企画があり、その一環でこれらの組曲が翌年の第109回定期演奏会も含めて2年がかりで取り上げられたのです(『柳河風俗詩』の「柳河」(この年のアンコール)以外を除く。なお、この「柳河」も名演奏です)。多田武彦先生の曲としては第94回定期演奏会の『雪明りの路』(これもレコード吹込みあり)以来となります。それ以前の多田先生の曲は、第86回定期演奏会(昭和36年)の『草野心平の詩から』の初演まで遡ります。なお、木下保先生は多田先生の曲を一度も演奏していません。
多田先生の曲が多くの男声合唱団で主要なレパートリーとなっているのはあらためて言うまでも無いことですが、ワグネルでは、学生指揮者が取り上げることは何回かあったものの、他の団に比べてその回数は限られていました。これほど多田先生の作品を歌わなかった男声合唱団というのも珍しかっただろうと思います。
『中勘助の詩から』は北村協一先生指揮による関西学院グリークラブの演奏がスタンダードになっていた感があり、情緒的でありながら少々諧謔的でリズミカルな演奏を思い描く方が多いと思います。ところが畑中先生の音楽は、かなりゆっくりと、かつ微妙に揺れるテンポの中で、詩人の揺れ動く気持ちをきわめて繊細な「歌」として伝えてくるものでした。まるで引き出しの奥から昔の宝物を一つ一つ大事に取り出すかのように、「歌」が心の奥底にまで沁みてきます。
「心に沁みるような」という言葉はこういうときにこそ使うべきなのでしょう。メロディのフレージングがこれほど精緻で美しい演奏はなかなかないだろうというべきでしょうか。しかもそれを100名近くの人数で実現しているのは驚愕です。
畑中良輔先生は「僕の指揮はテンポが細かく動くからちゃんとついて来いよ」と仰っていましたが、その畑中先生の世界に忠実に応えています。歴史に残る名演奏の一つだと思います。
第127回定期演奏会で北村先生がワグネルを振っている録音もあります。団員が減ってOB有志との合同演奏になっていますので一概には比べられないとはいえ、同じ団体でも指揮者が違うと、これだけ表現が違うものかと思います。
第108回定期演奏会
第127回定期演奏会