畑中良輔先生を悼む(Echotamaのブログ)

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 久しぶりの更新になりました。

 畑中良輔先生が5月24日にお亡くなりになってから、早3ヶ月が過ぎました。この間、畑中先生の追悼文を書かなければと思いながらも、その後、個人的な訃報にも相次いで見舞われ、とてもブログを書く気持ちにはなれませんでした。いまだに気持ちがフワフワしていて、現実感がないような気持ちがしていますが、今更ながら、ようやく文章を書き始めることができました。

畑中良輔先生

 多田武彦、ガーシュイン、山田耕筰、マーラー、平井康三郎、ベルリオーズ、アーン、ドヴォルザーク、柴田南雄、レハール、中田喜直、清水脩、フォーレ、信時潔、ワーグナー、チャイコフスキー。私が慶應ワグネル現役だったわずか4年間に、畑中先生のご指導を受けた作品の作曲家はこれほど多数にのぼります。OBになってからも含めれば、ブラームス、シューベルト、髙田三郎も加わります。先生はいつも「ワグネルを通じて世界の音楽に目を開け」と仰いました。おかげで海外の大作曲家の世界に触れることができ、さらにそれを足がかりにして、多くの作曲家の音楽に目を開くことができたのです。今になって思い返せば、高校までの私は、声楽をやっていながら、ほとんど邦人の現代作曲家による合唱曲しか知らず、海外の歴史的な巨匠は、一部のオペラを除き、器楽曲の作曲家としてしか見ていませんでした。邦人の現代作曲家の作品と、過去の偉大な作曲家の「クラシック」とは、別世界のもののようでした。畑中先生のおかげで、これらの世界が統合され、より豊かな音楽の世界を、広い目で俯瞰することができるようになったと思うのです。

 しかも、この多数の作曲家の作品の表現にはいつも感動させられました。以前にも書いたとおり、まず畑中先生が指揮台に立っただけで、私たちの出す声が全く変わってしまいます。さらには解釈の段階で、特に合宿のときなどには、詩の意味や、作品の歴史や時代背景など、守備範囲は古楽からロックまで、ときには音楽だけでなく文学・美術・歌舞伎等の伝統芸能まで、まるでこの世に知らないことなど無いかのように、「なぜこのように歌わなければならないか」という必然性を詳細かつ精密に解説して下さるのです。この「必然性」が、比べ物にならないほどの重みと深みを持っている。そこが畑中先生の決定的な違いでした。その「必然」的な表現が結実したとき、ときには信じがたいような形而上的なことが起こります。演奏している私たちの心が本当に一つになってしまっているような感覚。時には聴衆の皆様も一緒になってホール全体が一つになるような感覚。畑中先生は、理屈では説明できない「魔法」を私たちにかけてくれるのです。私が経験したのは110th現役定期演奏会(1985)の「ファウストの劫罰」の大阪公演と東京公演、1986年の夏合宿での「メリーウィドウ」、第14回OB四連(2003)のブラームスの「ジプシーの歌」の計4回のみです。畑中先生がいなくなってしまった今、あのような、信じられないような感動的な時間をもう一度体験することはできるのでしょうか。

 私が畑中先生と会話した機会はほんの少しでした。魔法使いで博覧強記の先生に対して、私ごときが話せるような情報はわずかしかなく、話しかけることは畏れ多いことのように思われました。

 その数少ない機会の一つとして、大学1年生の夏合宿のときののことは鮮明に憶えています。

 最近も続いていたのか分かりませんが、私が現役のときは、夏合宿恒例の行事として、1年生と畑中先生の対話の時間が設けられていました。

「君は身内に音楽をやっている人はいたの?」
「母が琴をやっていて、家が琴の教室になっていました」
「ああ。僕と同じだ。僕の実家も琴の教室だったのよ。何流?」
「生田流です」
「ああ。それも同じだ。君、いい声が出てるからこれからも頑張りなさいよ」

 約100人で歌っている中の、最後列(習慣的に上級生が前になるように並んでいたので、1年生は最後列が定位置でした)の一年坊主のたった一人の声を、畑中先生の耳は聴き分けていたのです。

 畑中先生と、もっといろいろな話をしたかった。先生と、もっといろいろな話ができるくらい、自分のなかにもっと蓄積しておくものが欲しかった。畑中先生、今はまだまだ勉強不足ですが、先生の下に行くときにはもう少しましになって、きちんとお話ができるようになって、再びお会いしたいと思います。



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