4月29日は昭和の日。言わずと知れた昭和天皇の誕生日ですが、中原中也の誕生日でもあります。おそらく意外に思われる方が多いと思うのですが、中也の方が6歳年下です。
中也の一生は、世間一般から見れば、生活破綻者ということにならざるを得ないでしょう。でもロックな生き方そのものです。しかもパンクロック。
幼い頃は神童と言われ、旧制山口中学に12番で入学したところまでは良かったのですが、中学2年で酒とタバコに溺れる不良少年となり、成績は120番(最下位)まで降下。ついには中学3年で留年となり、世間体のために京都の立命館中学に移ります。
京都では中学在学中の17歳で3歳年上の長谷川泰子と同棲。6歳上の富永太郎らと知り合い詩作に耽り大学生仲間と飲み歩き。
中学修了後に泰子と上京。早稲田予科の受験に失敗。まもなく東京で友人となった小林秀雄と三角関係になり、泰子は小林の元へ走ります。
日大予科に入学するも半年で退学。父が死去したが長男で喪主なのに「一族の恥」ということで葬儀に参列させてもらえず。予備校に通うという名目で仕送りを続けてもらうも、詩集の出版を目論み果たせず。同人誌を創刊するも同人仲間と喧嘩して廃刊。
その後は説得により中大予科と東京外国語学校を修了していますが、この間、酒乱はますますひどく、他人の家の街灯を叩き壊して警察に半月も留置されたり、誰彼かまわず客に喧嘩をふっかけ人の店を潰してしまったり、ビール瓶で友人を殴るし、身長が150cmしかなくて実は喧嘩に弱く返り討ちに遭ったり、乱れた行状を挙げればきりがありません。
350篇以上の詩を書き残していますが、生前に出版されたのは『ランボオ詩集〈学校時代の歌〉』の翻訳と処女詩集『山羊の歌』のみ。当然生活できず、放送局への就職を世話してもらうも断り、結婚して子供をもうけても30歳で死ぬまで仕送りに頼る生活でした。
そんな中也の詩が、心に突き刺さって仕方がないのです。有名な「骨」という詩があります。
ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きていた時の苦労にみちた
あのけがらわしい肉を破って、
しらじらと雨に洗われ、
ヌックと出た、骨の尖(さき)。
(中略)
骨はしらじらととんがっている。
中也は何も衣裳をまとっておらず素っ裸どころか、肉さえもけがらわしいと言い、骨までむき出しになって、しかもそのさきは「しらじらととんがっている」のです。誰彼かまわず中也の骨が突き刺さるのです。人を傷つけずにはおかない、危険な骨。
しかも、これも有名な詩「汚れっちまった悲しみに……」。引用は省きますが、あらゆる汚れを一切受け入れることができない純粋さ。誰よりも感じやすい心。中也自身も悲しみによって自ら壊れてしまうのです。
長男の文也が小児性結核により2歳で急死してしまったとき、中也は文也の遺体を抱きしめたまま離さず、皆で無理やり引きはがして棺に入れたといいます。その後に書かれた「春日狂想」は、私は冒頭を読んだだけで、それ以上読み進めることができませんでした。
愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。
慶應ワグネルのOB合唱団で『在りし日の歌』を築島繁君の指揮で歌ったときも、実は練習がつらくて仕方がありませんでした。終曲の「また来ん春…………」が歌えないのです。演奏後の録音を聴くこともできませんでした。
また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない
(中略)
ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……
ついに中也は心の平衡を失い入院させられてしまいます。騙されて入院させられたと言って暴れたため、文也を思い出させる東京を離れ鎌倉に転居しましたが、体調が急激に悪化。心身を休めるため故郷に帰ろうとし、小林秀雄に詩集『在りし日の歌』の草稿を渡した後、急性の結核性脳膜炎で鎌倉で死去。文也の死から1年も経っていませんでした。「帰郷」は果たされなかったのです。
これが私の故里だ
さやかに風も吹いている
心置きなく泣かれよと
年増婦(としま)の低い声もする
ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云う
中也の誕生から114年の今日、あらためて中也の詩を読んでいます。相変わらず「春日狂想」は読めません。しかし、純粋であるあまりに自壊していった中也の心に惹かれてしまう自分がいるのも感じているのです。
長文にお付き合いいただいた方へ。中也の詩のベスト版のサイトがありますので、よろしければお読みください。(著作権は切れています)
http://www.rosetta.jp/chuya/poem_index.html