まもなく、母の一周忌を迎えます。
母は多芸多才な人でした。以前にも書いたとおり、琴もやっていましたが、旧制の高等女学校と高校では合唱部にも所属していました。とにかく歌が好きで、何をするにもよく鼻歌を歌っていました。たぶん私は赤ん坊の頃から母の背中でその歌を聴いていたのでしょう。また、和裁は余技の域を超え本職になっており、我が家の収入を支えてくれました。私が高校生だった頃も、兄や姉に仕送りをしながら、毎日4~5時間の睡眠で和服をこしらえていました。私に仕送りをしていた頃も含め、子育てが終わるまで、そんな生活が続いていたと思います。
NHK-FMのヘビーリスナーで、和裁をしながら、クラシックと邦楽の番組をよく聴いていました。おそらくその蓄積でしょうか、TVのCMなどでクラシックの曲が流れてくると、母から質問が飛んできます。「ハイ、曲名は?」。母には全くかないませんでした。また、文学についても母には太刀打ちできませんでした。父からは「勉強しろ」と百万回言われましたが、母は全く言いませんでした。そのかわり言われたのは「本を読みなさい」「どんなに頭がよくても教養が伴わないとだめ」ということでした。
私が高校生になった頃から、母は和裁の最中に私に話しかけ、クラシックの曲や演奏の良し悪し、親戚から頂いた絵の値踏み等、音楽、美術、文学等について意見を求めることが多くなりました。「自分の子供とこういう話ができるようになるとは思わなかった」と言われて、そのときは私も嬉しく思ったものです。
こういう文化系の話題に関しては、当時、父はまだその価値を全く認めていませんでしたから、母との話が長くなって、そろそろヤバいかな…と思っていると、「また、勉強もしねえで、らっちもねえ(方言で「くだらない」という意味)話ばかりしてやがって」と、案の定、父の怒鳴り声が飛んできます。母と私は目を合わせて苦笑い。母と私は親子というより同志のような関係でした。
昭和一桁生まれなのに164cmの長身。少しふくよかで、肩幅も広く、がっしりした体格。私が高校時代、何かのはずみで、母と腕相撲をしました。私の完敗でした。「こっちは百姓仕事で鍛えているから、かなうわけ無いでしょ」。あらたまった外出着はビシッとした和服が多く、大柄な体の迫力が一層増し、一目で威圧感がありました。口数は多くないが、口に出さないだけで、実は文化系の諸芸に通じていて一家言を持っている。いつも落ち着いていて、うろたえたのを見たことがない。軽率なことを言うと、心の中で何と思われているかわからない。他人にとっては少し近寄りがたい怖い人だと思われていたようです。
私がまだ生まれる前、飲み屋で父がヤクザ者に絡まれ、父を追いかけて家までついてきてしまったことがあるそうです。ついには玄関から家の中に上がり、ちゃぶ台に座り込み、怒鳴り散らします。その状況の中で母は、お茶をいれ、「今日のところはお引取り下さい」と、一杯差し出したそうです。すると、ヤクザ者は父に「お前の嫁さんはすげえなあ。嫁さんに免じて許してやるわ」と言って帰っていったそうです。母に言わせると「怖くて生きた心地がしなかった」のだそうですが、ヤクザ者には母が落ち着き払っているように見えたのでしょうか。
私がたまたま故郷に逆単身赴任となり、実家に転がり込んでいた頃、母がボソッと言いました。
「私の人生って、こんなもので終わってしまうのかな」
「僕がただのサラリーマンになっちゃったから、申し訳なかったね」
「○○(私の名前)はこれでよかったの。音楽で食っていくってほどの才能じゃなかったと思うから、サラリーマンじゃないと食っていけなかっただろうし。私の人生は、私の問題」
自分が才能をひた隠しにして、普通のふりをして生きてきたことを、どこかで納得できていない部分もあったように思えるのです。
また、数年前から突然こんなことを言い出すようになりました。
「FMでたまにバスバリトンの歌声が流れてくると、○○(私の名前)が歌っているようで涙が出てくる。こういう声をあと何度聴けるだろうかと思う」
背中が曲がってきて、他にもあちこち調子が悪いようなので、医者に行くように勧めると、頑なに拒否しました。
「病院に行ったら家に二度と帰ってこられなくなる。そうしたらお父さんはどうなるの。お父さんは一人でなんか暮らしていけないでしょ」
今から思えば、自分の命が余り長くないことを直感していたのでしょうか。
昨年5月、ようやくお友達に無理やり車に乗せられて、総合病院で検査してもらったら、すでに癌が内臓中に転移しており、余命3ヶ月ということでした。その後、検査で数日間入院したものの、やはり結論は「なす術なし」。入院していても、もはやできる治療がないということで、自宅に帰されました。本人に告知はしませんでした。
その後、次第に衰弱していき、自力で食事が採れなくなって、再入院。
最後に母を病院に見舞ったときは、もう意識は無く、話しかけても反応がなかったので、母の手を握りました。母の手を握ったのは腕相撲のとき以来です。その手は暖かく、百姓仕事・台所仕事や和裁で鍛えられ節くれ立っていたはずの手は嘘のようにきれいでしたが、もはや骨と皮ばかりになっていました。腕もやせ細り、顔もすっかりこけて、以前のふくよかな姿は見る影もなくなっていました。あまりにも、あまりにも、無残でした。
2011年10月29日、母は79年間の人生を終えました。
周囲から見て、常に大人であり、落ち着き払った母。私にとっては、同志であった母。
考えてみれば、乙女らしいかわいさとはいつも無縁でいたように思います。それは、母自身が望んだことだったのか、生活の苦労に追われたからなのか、それとも「わたしが一番きれいだったとき(by茨木のり子)」を過酷な時代のなかで過ごしたからなのか。
今は天国で、乙女時代に戻って、一面に花が咲いた花野を歩み、花に囲まれ、花と戯れていることを願っています。