またきわめて個人的な長文で失礼します。今日は亡母の10回目の命日なのです。4月の投稿とも一部ダブりますがご容赦を。
昔、実家でたまたまベートーヴェンのピアノソナタ第28番を聴き始めたとき。母が言いました。「シューベルト?いや、違うわね。ベートーヴェンにこんな曲あったかしら?」
ベートーヴェンのピアノソナタが全曲頭に入っている慶應ワグネルのお友達からすればお笑いでしょうが、28番はそれほど演奏頻度が高い曲ではありません。ベートーヴェンといえばガッチリした構築美を想像される方が多いと思うのですが、28番は例外的にきわめて豊かな歌謡性に溢れています。時々「ベートーヴェンはメロディを作るのが苦手だった」と言う方がいますが、この曲を聴いたことがないのでしょう。私の勝手な想像では、この頃のベートーヴェンは更なる飛躍を求めて暗中模索していて、その一つの方向として歌謡性を求めたように思えるのです。この後、ベートーヴェンは自分の拠り所であった構築美に今一度立ち返り、それを極限まで突き詰めた29番「ハンマークラヴィア(ピアノ)のための大ソナタ」という大作を生み出し、ブレークスルーして30,31,32番の最後の三部作に至ります。そこではもう古典派とかロマン派とかを超越した遥か彼方の高みに到達しているのです。
私の母はLPやCDを数十枚しか持っていませんでした。誕生日とかでいつも「CDをプレゼントするよ」と言ったのですが、OKしてもらったことは3回しかありません。1回目はチャイコフスキー好きなのに交響曲のCDを1枚も持っていないので、ムラヴィンスキー指揮の交響曲4,5,6番をプレゼントしようとしたのですが「ムラヴィンスキーは頭に入っているからいらない。それと悲愴(6番)だけはなぜか好きになれないの」というので、フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団の4,5番にしました。2回目はラフマニノフのピアノ協奏曲3番ホロヴィッツのカーネギーホールライヴ。「あれは持っておく価値があるかもね」だそうです。3回目はショスタコーヴィチの交響曲全集。これは珍しく母のリクエストで「ショスタコーヴィチはあまりFMで流してくれないから」でした。せっかく兄がプレゼントしたCDミニコンポがあるのに「私はこれで十分」と、誰かの結婚式の引き出物でもらった防災ラジオを持ち歩き、台所と和裁の仕事中にいつもFMを聴いていました。情報源はこれだけです。オーディオファンなら気が遠くなりそうなショボい音なのに。
FMでベートーヴェンの28番が流れるときはあまりなかったと思います。でも母の耳は、それがベートーヴェンの曲であることも、例外的な歌謡性もすぐさま見抜きました。オソロシイと思いました。
私が中3になるとき、母は私に「お前は人より歌がうまいかもしれない。でもその程度では食べていけないから趣味にとどめておきなさい」と言いました。姉については「指はよく動くけどそこまでね」。姉の大学の教官は若かりし青島広志先生。「まぁ~あなたはピアノがお上手っ」(青島先生をご存じの方はニュアンスがわかると思います笑)と言われたそうで、今は音楽の小学校教員になっているんですけど。一方で妹には「弾き出した最初の音から違う。きちんと伸ばしてあげないと」と言って、わずか小学校3年のとき、長野県内に数人しかいない「芸大に進むにはXX先生につかなければ」と言われる上田市の先生のところまで連れて行き、なんと弟子入りOKをもらってしまいました。おかげで妹は、毎週一人で1時間に1本しかない電車に揺られて厳しいレッスンに通うことになりました。東京ならまだしも、田舎で一人で電車に乗っている小学生なんていません。よくやったものです。今なら児童虐待と言われるかも(その後、妹が小6の時『もうやめたい』と言ったので『本人がそう思うならしかたない』とやめてしまいましたが)。
私が高校生になってだんだん知恵がついてきて、母とクラシック談義などを始めた頃です。母は「自分の子供とこんな話ができるようになるとは思わなかったわ」と言いました。確かに言いました。最も自分に身近なはずの、産み育てた子供にさえ、自分は理解されないと思っていたということではありませんか。ずっと一人ぼっちだったのです。なんという孤独でしょうか。
一番音楽の才能があったのは母だったに違いありません。でも子供の頃から家庭に尽くし続け、誰にもその才能を理解されないまま、信州の片田舎に埋もれて亡くなったのです。
亡き母へ。私はあなたにはとても敵いません。でも血のつながった息子として、今からでもあなたの孤独を埋めていきたい。そしてあなたの分まで、少しでも音楽の世界に貢献したいと思うのです。