北村和久先生を悼む(Echotamaのブログ)

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中学の恩師北村和久先生がお亡くなりになり、長野市まで葬儀に行って来ました。私の同級生をはじめ沢山の方々がお見えになり、先生のご遺徳が偲ばれます。93歳。大往生ですが、いつまでもお元気でいてほしかった。

私の父も中学教師だったのですが、田舎教師はとても狭い社会で、xx先生のクラスは成績が良い、まとまりが良い、不良が出ない、等の情報が経験則として他校を含め共有知となっていました。北村先生が担任になったとき、父から「北村先生は指導力がある。いい先生に当たって良かったな」と言われました。

76歳頃の北村和久先生。偉大な素晴らしい先生でした。

長身、痩躯で、温和で気品があり「ミスター北村」「ダンディ北村」と呼ばれていました。名門旧制長野中学でロシア文学に傾倒し官立東京外事専門学校(現東京外語大学)露語科卒という異色の経歴でした。病気で卒業が2年遅れたと言っていました。なぜ中学の英語と社会の教師になったのかわかりません。普通に教師になるなら高等小学校から師範学校を出れば十分で、出世コースも事実上師範学校卒業者に限られていました。北村先生も優秀な学歴ながら出世とは無縁でした。(同じことが私の父にも言えるのですが、父は「アイツら(師範学校出)は準専門学校、俺は専門学校」と言って見下していました)

中学当時、私の授業態度が悪いのは有名で、授業そっちのけで絵を描いたり工作したりしていたので、同級生からは「手ずくな男」(方言なので標準語訳が難しいのですが「手悪さ男」という意味が近いです)というアダ名を頂戴しました。また視聴覚委員(昼の学校放送を担当)なのを良いことに5時間目から6時間目になっても授業中に給食を食べていました。加えて、国語のHS先生が私が部長をしている合唱部を侮辱するような発言(「合唱部のような男女がイチャついてる部活」と宣った!)をしたので「撤回するまで授業はさせません」と言って、教室前で足止めし、論破し、1時間授業を潰したこともあります。でも北村先生以外から注意されることは殆どありませんでした。北村先生からはよく呼び出され、同級生たちは「多分油を絞られているんだろう」と思っていたようですが、実はポーズで、全然怒られていませんでした。しかし私の結婚式のスピーチ(北村先生を長野から東京までお招きしていたのです)で、実は他の先生方から「あの生徒を何とかしろ」と突き上げられているのを、北村先生が「まあ見ていてください」と、全て自分預かりとして留めておいてくれていたことがわかりました。後日の同級会でお詫びしたところ「いいんだよ。でもHS先生には随分やられたな。ハハハ」と軽やかに笑っていらっしゃいました。

中3の時、私は音楽の道を諦め、将来を思い悩み、アナウンサーはどうだろう、と思い立ちました。私を直接ご存知の方はご承知でしょうが、話声が独特で、前述の通り放送にも携わっていましたし、地元の有線放送のアナウンスコンクールで入賞したこともあります。そこで北村先生に相談したところ、普段温和な先生が厳しく怒り出しました。「お前はニュースを読む側ではなく、読まれる側になれる人間なんだ。表面上の才能にとらわれて、本質を見失ってはいかん!」先生のご期待に応えられなかったのは大変申し訳ない限りですが、こんな暖かくて有り難い叱責を頂けることがあるでしょうか。

同じく中3の時、関西からU君という転校生がやって来ました。当時地元の温泉街に関西系のヤクザが勢力を伸ばしてきて、在地のヤクザと抗争を起こしていました。銃撃戦が頻繁に起きるので、小学校は集団登校となり、警官が先導するものものしさでした。U君は明らかに挙動不審で、私服でした。一目で関西から来た応援部隊のヤクザの息子だとわかりました。我がクラスは転校生が入る順番ではなく、北村先生の指導力が頼りにされたのは明らかでした。しかし彼は名前を紹介されるやいなや、教室の真ん中に座っていたT君に飛びかかり、胸ぐらを掴み上げ「ガンつけたろワレーゴラー!」と叫んで教室を飛び出して行きました(もちろんT君は品行方正ですし我がクラスには不良どころかヤンキーも1人もいません)。みんなビビりました。変形学生服を着てイキがってるヤンキーとはレベルが違います。女子はみんな泣いていました。北村先生はU君を同じ教室に入れるのは無理と判断し、生徒指導室(当時我が学校には特殊な町ということもありこういう特別教室と専任の教員がいました)に登校させることとしました。しかしそこでも手に負えず、北村先生が生徒指導室に行きU君の対応に追われることになりました。聞けばU君は学生服を持っていないばかりか、学校に通ったこともないということでした。学校に来るには学生服がないと困るだろうと思い、私は背が伸びて着られなくなった学生服を、親に無断で(ヨソ者のヤクザと関わりを持ちたいわけがありません)彼に渡すことにしました。狭い田舎町なので「関西から来たUというヤクザの家」と言えば場所はすぐわかりました。不思議に怖いとは思いませんでした。アパートの玄関で呼び出すとU君が出て来ました。履物から見て父子二人暮らしのようでした。私が名乗って学生服を渡すと、彼は無言で受け取りました。後日北村先生に呼び出され「お前Uに学生服をあげたんだってな。よくやった!」北村先生はU君と確実にコミニュケーションを交わしていたのです。

北村先生はU君対応のため授業に来られないことが多くなり、授業はリーダー格のM君を中心に、北村先生の指示のもと、生徒が教壇に立って自主授業を行うようになりました。自習ではないのです。生徒が教師となって授業を進めたのです。高校受験を前にこういうことができたのも、北村先生の懸命な努力をみんなが理解し信頼していたからに他なりません。この噂は他校にいた私の父の耳にもはいり「先生の息子さんがいるクラスはすごい。教師がいなくてもきちんと授業が進んでいる。そんなクラスは今まで見たことも聞いたこともない」と言われたそうです。(ちなみにU君は北村先生の奮闘むなしく17歳で銃で撃たれて亡くなりました。今は安全な温泉街になっていますので、皆さんでおいで下さい)

ある日、北村先生が「今日は俺に1時間、時間をくれ」とB4版のプリントを配り出しました。そこにはびっしりと軍歌「戦友」の歌詞が書いてありました(今調べると14番までが完全版となっているのですが、北村先生のプリントには50何番までありました)。北村先生は多くを語りませんでした。戦時中自分は徴兵年齢に達していたが、検査で不合格になった。しかし同級生たちは招集されていき、二人の親友が戦死した。今日はその二人のためにこの歌を歌わせてほしい、と。先生は1時間歌い続けました。ぼろぼろと泣きながら歌っていました。友を失った悲しみが私の胸に深く突き刺さりました。確かに「戦友」は勇ましい軍歌とは全く違う歌で、厭戦的な歌詞もあり、一部歌詞を変えられたり、禁歌とされたこともあるようです。しかし軍歌ではないと言い切ることも困難でしょう。右翼の街宣車がこの曲を流しているのに出会ったこともあります。今、北村先生と同じことをする教師がいたら、左右から攻撃されるかもしれません。しかし北村先生の「戦友」ほど悲しみに満ちた歌には今まで出会ったことがありません。今も鮮烈に記憶に残っています。

同級生から聞いたのですが、卒業前、北村先生は我がクラスと別れるのがつらくて「ああもう卒業式までX日しかない」と、毎日指折り数えていたそうです。私達も同じ気持ちでした。

このたびの葬儀に際しても我がクラスは、私のような遠隔地も含め20数人も集まりました。みんな泣いていました。実は通夜が一通り終わった後、我がクラスの面々だけが残り、ナイショで納棺された棺の蓋を開け、皆で泣きながら先生の頭をなでたり、頬をさすったりしました。私も、実の父が亡くなったときにも流れなかった涙が溢れて止まりませんでした。みんなそれぞれ北村先生とのかけがえのない思い出を持っているのでしょう。そして卒業後40年経った今でも、同級会は毎年開催され、常に20人以上集まっています。特に女子は、私の一般的な経験則では小集団に固まって集合離散することが多いのですが、我がクラスは一枚岩で、通夜の後にも女子全員でディナーをしたそうです。そしてクラスのLINEグループには20人登録されていて常時繋がっています。みんな、このクラスで良かった、全部北村先生のおかげだね、と言っています。

今は向こうの世界で、先に旅立った奥様や、早逝したSK君、MS君と再会し、楽しく過ごしていることでしょう。ご冥福を心からお祈りします。