昨日は亡母の誕生日です。生きていれば88歳でした。
息子の私が言うのも難ですが、母は天才肌でした。弟の叔父たちに聞いても、大して勉強などしていないのに成績は良かったそうです。以前にも書いた通り、クラシック音楽、三絃(琴・三味線)、美術、文学、何を話題にしても母には敵いませんでした。
私に「お前の才能では音楽で食うのは無理」と断言したのも母です。母の耳の良さは日頃から痛感していたので、父のように「音楽をやる人間は二流」と闇雲に反対されるよりも余程説得力がありました。琴は母は準師範で私は門外漢。美術に関しては、どこで覚えたのか、和洋の作品を良く知っていました。文学は特に高等女学校の頃、叔父たち曰く「夜は勉強しないで本ばかり読んでいた」らしく、私が太宰治や坂口安吾などの戦後文学に傾倒しているのも母の影響でしょう。私にも「勉強しろ」とは一言も言わず、そのかわり「本を読みなさい」といつも言っていました。和裁はプロ。華道も嗜んでいて、毎年正月には玄関の水盆に花が見事に飾られていました。形からして小原流?かと思うのですが、何流だったのかきちんと聞いておけばよかった。茶道も知識があるらしく、屋代高校にも茶道班があるときいたとき「何流?」と聞かれたので「江戸千家というらしいよ」と答えたら「ふうん。表系ね。珍しいわね」と言っていました。極めつけは電話。母は電話帳を必要としませんでした。どこへ電話をするにも記憶だけでかけられる。70過ぎになっても記憶力は衰えませんでした。父と「お母さんの頭の中はどうなっているんかやあ」と言ったものです。
母は高等女学校5年から新制高校3年の1期生となります。周囲はみんな母は大学に行くものだと思っていたらしいのですが、母は「女が教育を受けても何にもならない」と言って、大学に行かず、高卒で町役場に就職し、小学校の事務職員になりました。その後は町役場を退職し、鉄道省から脱サラして事業を興した祖父の会社を手伝うようになります。結婚後は仕事を全てやめて「女が社会に出るべきではない」と言って、和裁の内職と、自宅での三絃の教室にこだわり、一生外での仕事をしませんでした。これも前に書きましたが、祖母が小学校の教員で、曾祖父母に育てられたことが影響しているのは間違いないと思います。母は自分の実の母を「お母さん」と呼ばずにファーストネームで「XXさん」と呼んでいました。後に認知症になった祖母の介護を母がすることになったのですが、自分を育てなかった母親の面倒を見るという気持ちは一体どうだったのだろうと、今でも考えさせられます。そして祖母を看取ったわずか13年後に、母は普通の主婦として一生を終えました。
70過ぎになったとき、母はボソッと「私の人生はこんなもので終わってしまうのかな」と言っていました。確かに母は周囲とは全く違う人間でした。自分でもわかっていたのだと思います。そのまま進めば普通の女性ではない人生を送っていたかもしれません。しかし、時代がそれを許さなかったこともあるでしょうし、母自身がブレーキを踏んでいたのも確かです。そんな母に育てられ、自分の妻も専業主婦である私が、女性の社会進出について意見を言う資格はないのかもしれません。しかし、才能を持った人間がそれを生かせずに一生を終えるのは、やはり寂しいことだと思えてならないのです。