畑中良輔先生の「魔法」(Echotamaのブログ)

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指揮台に立ったときから違う

 東西四連が終わると、ようやく1年生も一緒に練習をすることになります。まずは定期演奏会に載せる曲の音取り。この年の畑中良輔先生は、多田武彦先生の『草野心平の詩から』とガーシュインの『ポーギーとベス』からを選曲していました。前期試験が終わってから、夏合宿に入るまで、夏休みになった幼稚園を練習場にして何日も、一日中音取りと声合わせを繰り返します。

 『草野心平の詩から』は2年前に学生指揮者のステージで取り上げられていたので、3年生以上は既に経験済み。「1、2年がきちんと音が取れれば大丈夫なんだから、お前らちゃんと練習しておけよ」と、余裕の表情ですが、未経験のこちらは寸暇を惜しんで追いつかねばなりません。ようやく追いついて、音合わせもある程度こなれて来たところで、北信州の志賀高原で7泊8日の夏合宿に突入します。

 合宿は7時起床のあと、8時まで屋外でスキー場の坂を走って登り体操と軽い運動。朝食の後9時から12時まで練習、昼食の後13時から18時まで練習、夕食の後19時から21時まで練習でその後はエンドレスのパート練習というメニューでした。先生の練習を迎えるまでに、どれだけ期待に応えた仕上がりにしておくのかが学生指揮者を筆頭にした技術系陣の使命です。上級生はもう何回も畑中先生の指揮を経験してきていますから、「たぶんここはこういう表現を要求するのではないか」と、様々な箇所で傾向と対策を練ります。そして「なかなか良くさらえているネ」という一言を頂戴したいがために朝から晩まで練習を繰り返すのです。

 そして、ついに畑中先生の練習の時がやってきました。「まずは1回通してみて」。学生指揮者の指揮で「草野心平の詩から」を演奏します。学生指揮者の演奏とはいえ2年前に定期演奏会に取り上げた曲ですから、恥ずかしい演奏をするわけにはいきません。先生は学生指揮者の横でソファーに座りながら聴いています。

 最後まで通し終わったあと、「じゃ、始めようかね」と、畑中先生が指揮台に立ち、しずしずと指揮を始めます。

 「ぼうぼうのー、へーいーやあーーくーうだりてー」冒頭のベースのパートソロが始まると、信じられないことに、畑中先生が指揮するだけで、声の響き、深み、ツヤが今までと全く違うのです。もちろん、それまで手を抜いていたつもりなど全くありません。それなのに、歌っている自分自身の声さえも、別の人間になったかのように違っているのです。まるで魔法にかけられたかのようです。

 畑中先生の練習は、先生が指揮台に立った時から特別な緊張感が漂います。そこに、容赦なく畑中先生の怒声が響きます。「誰だ?今遅れたの。もう1回最初から」「『く』のタイミングが合わない」「ここで微妙にテンポを変えているんだ。これぐらい感じてくれよ」「誰だ!『坊や声』出しているのは!」「大きすぎる。歌いすぎ。最初はもっと抑えて」…確かに厳しい言葉もあるのですが、これほどまでに、指揮台に立っただけで音楽を変えてしまう先生を私は知りません。時々、他団体の方から「畑中先生の違いは何ですか」と訊かれることがありますが、そのときは「指揮台に立ったときからもう違います」と答えることにしています。

 「他のパートも同じ事なんだからよく聴いてろよ」他のパートが入れぬまま、ベースソロの練習だけの長い時間が経過しますが、他パートも身じろぎもしません。そして畑中先生が振る前とは全く別世界のパートソロが出来上がってから、バリトン、セカンド、トップが順にアンサンブルに加わってくるのです。

「目の前が真っ暗」

 先日、畑中良輔先生の卒寿をお祝いする会に出席しました。その席で畑中先生から頂戴した言葉を紹介したいと思います。

 「どの曲も、最初の練習日に指揮したときは、目の前が真っ暗になって『どうしてこの曲を選んでしまったのか』と必ず後悔するんです。ようやく3回目くらいの練習になって形になってきて、これならどうにかなるかな、と希望が見えてくるんですよ」

 上記のとおり、畑中先生の最初の練習のときは、学生指揮者が用意周到に下振りをして当日に備えるのですが、畑中先生が前に立っただけで、まるで魔法にかけられたかのように「響き、深み、ツヤが今までと全く違う」声が出て、学生指揮者の下振りのときのことなど吹き飛んでしまいます。しかし、そのときはまだ、畑中先生にとっては「目の前が真っ暗」な状態だということなのです。

 そして、練習が進むにつれ、畑中先生から言葉の意味、詩の解釈や曲の背景などの丁寧な解説をいただくことになります。畑中先生の守備範囲は単なる音楽だけにとどまらず、文学、伝統芸能、各国の文化・民俗など多岐にわたり、その膨大な知識と記憶力は信じがたいほどです。それらの片鱗に触れて、ようやく我々は曲の世界を少しずつ表現することができるようになってくるのです。

 このあまりにも大きい彼我の差を思うと、単なるプロとアマの差ということだけではなく、畑中先生という得がたい音楽家の偉大さと、音楽という世界の奥の深さの一端を感じずにはいられません。



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