「士郎正宗の世界展 ~『攻殻機動隊』と創造の軌跡~」世田谷文学館(Echotamaのブログ)

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昨日から世田谷文学館の開館30周年企画として、「士郎正宗の世界展 ~『攻殻機動隊』と創造の軌跡~」が開催されています。
https://www.setabun.or.jp/exhibition/20250412-20250817_shirowmasamune.html
私にとって『攻殻機動隊』は最近まで意識の底に沈んでいたのですが、関西学院グリー同期の重松孝君の息子さんがアーティストとして「シゲマツ」公式X(@nan_toka15)名義で『攻殻機動隊S.A.C.』のコラボ作品を制作しているのを知り、記憶がみずみずしく甦ったのです。

『攻殻機動隊』のファンの皆様は、原作の士郎正宗版、押井版、神山版、黄瀬版がどうだとか、様々なこだわりがあるようですが、私にとってはどの版でも良く、関心があるのは元々のコンセプトです。

一つ目は、よく言及されることではありますが、「『ゴースト』とは何か」ということです。石ノ森章太郎の「サイボーグ009」以来、従来SFの中でしか語られて来なかった各種のサイボーグ技術が、しだいに進歩して現実の物となりつつあります。主人公の草薙素子は脳と脊髄の一部以外は全て機械でできた「義体」です。一方AIが搭載され自分自身で意識を持っている完全な機械はアンドロイドでありロボットです。両者の相違は何でしょうか。脳と脊髄があれば人間なのでしょうか。その境目はきわめて曖昧です。脳と脊髄も物理的な物質であることには変わらないからです。作中では「ゴースト」があるものは人間(生物)であり、無いものはロボット(無生物)という概念が示されます。では「ゴースト」とは何でしょうか。実在するのでしょうか。これはデカルト的な心身二元論をデリダ風に脱構築して、再度二元論へと回帰させた概念なのでしょうか。命とは何か。意識とは何か。心とは何か。生とは何か、死とは何か。考えるほどに人間は「あいまいな存在」であることを認めざるを得ません。このように『攻殻機動隊』は哲学的、倫理学的、社会学的、心理学的な様々なテーマを提示し、論考のきっかけを与えてくれます。

二つ目は、『攻殻機動隊』はSFのサイバーパンクに属する作品だということです。サイバーパンクの舞台はおしなべてディストピア(ユートピアの反対語)です。文明が飛躍的に発展・進歩した世界が、理想郷ではなく、自由が抑圧され、巨大な闇の管理体制に支配される、反人間的社会となっています。55年前の1970大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」で、まだ人類の進歩への信頼が感じられます。一方その3年前の1967年には、既に手塚治虫が「火の鳥・未来編」で、コンピューターに支配された未来社会と核戦争のカタストロフィを描いています。石ノ森章太郎「サイボーグ009(1964-)」も、「仮面ライダー(1971-)」も、石井聰亙(現在は石井岳龍に改名)監督の映画「狂い咲きサンダーロード(1980)」「爆裂都市 BURST CITY(1982)」も、大友克洋「AKIRA(1982-)」も、「攻殻機動隊(1989-)」も、登場人物たちは決して自分が幸福だとは感じていません。さらには前述の各作品では、多少のヴァリエーションはあれども、肥大した闇の管理体制側と支配される側との戦いがテーマとなっています。人間の英知で築いてきたはずの未来社会が人間の手を離れ、幸福を生み出さず、逆に人間を支配する敵となっている。これは哲学、経済学において、ヘーゲル、マルクス、サルトルが唱えた「疎外」に他ならないのではないでしょうか。

今日2025年大阪・関西万博が開会しました。テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。このテーマに空虚さを感じてしまっているのは私だけでしょうか。待っているのはユートピアなのか、ディストピアなのか。サルトル風に言えば「人間は自分の本質を自ら創りあげることが義務づけられている」のであり「自分自身に全責任が跳ね返ってくることを覚悟」しなければならず「人間は自由という刑に処せられている(人間は自由であるように呪われている(condamné à être libre))」のです。いのち輝く未来を創るには「自由という困難さ」を乗り越えなければなりません。そうでなければ私たちは闇の管理体制をデザインしてしまい、それに抗するべく不幸な闘いを挑まなければならなくなるでしょう。草薙素子のように。

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