【問題発言あり】我々はコンクールにどう臨むべきか ~コンクールを批判する~(Echotamaのブログ)

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【長文失礼】小・中・高・大学・一般の合唱部・合唱団においては、コンクールで「勝つ」ことを目標にしているケースが多いと思います。しかしそれはあるべき姿なのでしょうか。私は功罪双方あると考えていますが、罪の部分が大きいと考えています。加えて、それらの合唱部・合唱団の活動のなかで、コンクールに重きが置かれすぎているように思えてなりません。それならば、私たちはどのようにコンクールに臨むべきなのでしょうか。私なりに考えてみたいと思います。

まずはコンクールの良い面を挙げます。一つ目は、明確な目標となること。合唱団によっては、合唱は和気あいあいと過ごすための手段であって、懇親に重きをおいているところもあります。それも一つの在り方だとは思いますが、コンクールという目標ができた時点で、結果がはっきりとわかりますから、「来年は全国大会に出よう」というように目標を定めることができます。その目標に向かって練習にも熱が入ることでしょう。コンクールが日本の合唱のレベルを引き上げるうえで、大きな役割を果たしてきたのは事実だと思います。

二つ目は、多くの団体の演奏を聴くことができるということです。勉強になりますし、独りよがりの技術や解釈を修正していく契機とすることができます。

三つ目は、大勢の人達に自分たちの演奏を聴いてもらうことができ、団体の知名度も上がるということです。特に良い成績を収めれば、他団体の団員や関係者が演奏会に聴きに来てくれるようになります。前項と合わせて、お互いの交流をもつことができれば、親密度はさらに上がることでしょう。

四つ目は、団員を募集するとき、コンクール入賞成績は大きな武器となります。多くの貴重な時間を使って活動に打ち込むうえで、それに見合うだけの団体なのか、新入団員が迷うのは当然です。その際に「私たちはこれだけの成績を収めている素晴らしい団体なのです」と言えるかどうかは、入団を納得させるうえでの一つの殺し文句となるでしょう。

五つ目は、指導者の指揮者にも「箔が付く」ことです。指揮者として生きていくうえで、自分が指揮をした団体が上位入賞をすれば、プロフィールに堂々と書けますし、他団体から声をかけてもらえる機会も増えるでしょう。例えば、昔、関屋晋先生が「音楽学校を出ていない私たちは、コンクールで認めてもらうしかないんです」と仰っていたと聞いたことがあります。

一方で悪い面、もっと踏み込んで言えば、コンクールが日本の合唱を歪めている面があると思います。

一つ目は、合唱の発展がコンクールに偏りすぎていて、声楽の他の分野へ目を開く契機になっていない点です。いわゆる合唱の名門校では、プロを多く輩出している学校と、そうでない学校が両極端に存在します。例えば私の愚娘は中高ともにNコン・朝コンとも全国大会を経験していますが、声楽のクラシックの名曲には全く興味を示しません。同じ福島県でも会津高校出身の音楽家はたくさんいますが、安積黎明高校出身の音楽家は寡聞にして聞いたことがありません。DNA的に近い韓国には、日本のような合唱コンクールはありませんが、韓国からは欧米で活躍する声楽家がたくさん出ていて、ドイツなどは韓国人無しでの舞台は成り立たないとすら言われており、日本は完全に追い越されています。コンクールが声楽全体の発展に結びついていないのです。合唱の発声について、もともと発声法については様々な「流派」がありますから、特定の人間の声が目立つと嫌われる可能性が高いです。本来、独唱も合唱も発声の基本は同じはずです。そして、みんな持っている声が違いますから、正しい発声をすれば、それぞれ違う声が出るはずです。しかし、団体によってはその違いを許容せず、プロの声楽家を目指せるような声を持った団員など、良い声ほど逆に疎まれて、目立たないように声を削られてしまったり、発声を捻じ曲げられてしまうことが生じます。これがコンクールの名門の合唱団において、プロを何人も輩出するところと、全く輩出しないところと、両極端に分かれる理由の一つではないかと私は睨んでいます。もしもプロ合唱団がコンクールに出たら、アマチュアよりも成績が悪いかもしれません。そんなことがまかり通っているのです。

二つ目は順位への過度のこだわりです。そもそも合唱の評価は主観のみであって、客観的な基準は全くありません。根本的な問題として、芸術に機械的に順位をつけていくことなど困難なのです。実際に審査員によって結果は全く変わります。例えば、昨年の東京都合唱コンクールの審査結果が公表されていますが、特に大学ユースの部でばらつきがみられます。

https://tokyochorus.com/event/concour/result/

しかも採点方法の問題があります。順位をつけるためには、数値化の採点方式を定めなければなりません。東京都合唱コンクールは「総当たりリーグ戦方式」、全日本合唱コンクールは「新増沢方式」が採用されています。

総当たりリーグ戦方式について(全日本合唱連盟のページ)

https://jcanet.or.jp/event/concour/league.htm

新増沢方式を解明する(全日本合唱連盟のページ)

https://jcanet.or.jp/event/concour/shinmasuzawa-kaisetu201001.htm

「総当たりリーグ戦方式」「新増沢方式」ともに問題を抱えています。双方とも基本は順位ごとの多数決です。また、双方とも順位点のみなので、レベルが大きく違っていようが、僅差であろうが、順位差の1点としてしか反映されません(「総当たりリーグ戦方式」は同位を許容するので若干の影響はありますが)。レベルを順位点差に反映させる方式であれば、別の結果になったかもしれません。例えばショパンコンクールは持ち点を配分して平均点で比較しますが、昨年の東京都合唱コンクールを単純な平均点(ショパンコンクールは恣意的な採点を防ぐため最低点と最高点を除外しますがここでは考慮しません)で計算すれば、コールクライネスが1位となります。また、同じ「新増沢方式」でも、最低点から逆に計算していくと順位が変わることが知られています。他にも朝コンでは福島方式、九州方式が存在し、NHKコンクールは新増沢方式を一部修正しています。コンクールの順位というものはこの程度の薄弱な根拠しか持っていないのです。

現状の採点方式は多数決が主流ですので、その結果何が起こるかというと、なるべく多数の審査員に気に入ってもらうために、できる限り無難な線を狙うことになります。過去に良い成績をとった団体の選曲をマネて、発声をマネていきます。また、選曲については、特定の作曲家に偏っていることは昔から周知の事実です。解釈についても個性的なものは避けられて、無難で無味乾燥な演奏が目指されてしまいます。本来、芸術は個性の発露であって、例えば「あの指揮者だったらどんな解釈をするのだろう」などと想像する楽しみがあるものです。ところがコンクールにおいては、無個性でつまらない演奏の方が上位にランクされてしまう危険性が常にあるのです。もうこの時点で、音楽芸術が個性の発露であり、人の心を揺さぶるものという中心点から外れています。炎上覚悟で書きますが、コンクールは芸術ではないのです。

三つめは、採点表が公表されるコンクールでは、ミスやアインザッツのずれは命取りです。誰にでも判りやすい欠点のため、順位を考慮するうえで影響が大きくなります。そのため、某社会主義国的な一糸乱れぬ演舞(演奏)が、より多くの審査員に好まれます。でも、そのような審査員は、(アインザッツのずれがよくある)フルトヴェングラーもウィーンフィルも高く評価しないのでしょうか?

おそらく、「コンクールは世界中で行なわれているではないか」、という反論があると思います。世界で広く行なわれているコンクールの大半は、若手の登竜門として、優れたプロの卵を発掘するためのものです。ですから功成り名遂げた音楽家・音楽団体がコンクールに出ることはありません。日本のコンクールは日本独自に特異に発展し、ガラパゴス化したシロモノなのです。以上のように、日本のコンクールは声楽や音楽芸術の発展を阻害している面も大きいと私は考えています。

では、私たちはどうしたら良いのでしょうか。

まずは、日本のコンクールは上記のような様々な問題を孕んでいるのですから、歌う側も、聴く側も、順位を絶対視せず、あくまでも一つの参考に過ぎないと割り切ることが必要です。当たり前ですが、コンクールが合唱の全てではありません。

できれば各合唱団の皆さんはYouTubeに音源をアップしてください。そして聴く側の方々は、コンクールの成績ではなく、自分の耳でその合唱団の実力を判断してください。他人の評価に振り回されてはいけません。

コンクールの良い面で挙げた1点目の「目標」については、コンクールである必要はありません。日本中のほとんどの名立たる音楽家・音楽団体が目標にしているのは、コンクールではなく、一期一会の演奏会でのお客様との触れ合いです。目標は、審査員ではなく、お客様に聴いていただくことです。これも当たり前のことではないでしょうか。

2点目、3点目の他団体との交流や集客については、他団体とのジョイントコンサートをお勧めします。刺激になりますし、勉強になるのはコンクール以上かもしれません。

4点目の団員募集や、5点目の指揮者の実績づくりについては、どうしても「コンクール入賞」というお墨付きがほしい、という意見もあるでしょう。「自分(たち)の実力を試してみたい」と思われるのも自然かもしれません。コンクールに出ることを否定はしません。音楽芸術は勝ち負けではなく、コンクールに「勝つ」ことを目標にするのは間違っているとわかってはいても、出るからには良い成績をとりたいと思うのも当然でしょう。そこで提案です。まずはコンクールに出るのは仕方がないとしても、一定の功成り名遂げたら、坂道系アイドルのように、コンクールを「卒業」するのです。そして「卒業」したことこそ一流の証として、あとは存分に個性を発揮した演奏を繰り広げていくのはいかがでしょう。一時は実際に大学合唱においてそんな時代がありました。今は関学グリーや同志社グリーがコンクールに復帰して時代が逆戻りしていますが、今一度コンクールについて見直してみてほしいのです。現在はSNSが発達し、前述のYouTubeをはじめ、様々な情報発信が可能となりました。コンクールの成績だけに頼らなくても、様々なアピールは十分可能なはずです。

昔、畑中良輔先生は言いました。「僕は慶應にコンクールに今まで出ろとも出ようとも言わないのは、やっぱり音楽は数で決まるものでないから嫌なんですね。それに人と比べて自分がどうだとかすぐ気にする人間になってほしくない」。また、先生はいつも「ワグネルを通じて世界の音楽に目を開け」と仰っていました。畑中先生だから、慶應ワグネルだからそう言える、と思われる向きもあるでしょう。しかし畑中先生がコンクールについて肯定的な話をしていたのは、私の記憶では会津高校の「ゆうやけの歌」のみです。会津高校ほどの次元の違う演奏であればまだしも、そうでなければコンクールは弊害が大きい。声楽界の頂点を極め、数々のコンクールの審査員を務めた畑中先生でさえも、そのように仰りたかったのだと、私は信じています。


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