【問題発言あり】我々はコンクールにどう臨むべきか ~コンクールを批判する~(Echotamaのブログ)

スポンサーサイトも訪れてください↓

Amazonプライム「30日間の無料体験はこちら」

小・中・高・大学・一般の合唱部・合唱団においては、コンクールで「勝つ」ことを目標にしているケースが多いと思います。しかしそれはあるべき姿なのでしょうか。私は功罪双方あると考えていますが、罪の部分が大きいと考えています。加えて、そのコンクールに重きが置かれすぎているように思えてなりません。それならば、私たちはどのようにコンクールに臨むべきなのでしょうか。私なりに考えてみたいと思います。

コンクールの良い面を挙げます。一つ目は、明確な目標となること。結果がはっきりとわかりますから、「来年は全国大会に出よう」というように目標を定めることができます。その目標に向かって努力していけるわけです。合唱団によっては、合唱は和気あいあいと過ごすための手段であって、懇親に重きをおいているところもあります。それも一つの在り方だとは思いますが、コンクールという目標ができた時点で、練習にも熱が入ることでしょう。コンクールが日本の合唱のレベルを引き上げるうえで、大きな役割を果たしてきたのは事実だと思います。

二つ目は、多くの団体の演奏を聴くことができるということです。勉強になりますし、独りよがりの技術や解釈を修正していく契機とすることができます。

三つ目は、大勢の人達に自分たちの演奏を聴いてもらうことができ、団体の知名度も上がるということです。特に良い成績を収めれば、他団体の団員や関係者が演奏会に聴きに来てくれるようになります。前項と合わせて、お互いの交流をもつことができれば、親密度はさらに上がることでしょう。

四つ目は、団員を募集するとき、コンクール入賞成績は大きな武器となります。3年間、4年間等の貴重な時間を使って活動に打ち込むうえで、それに見合うだけの団体なのか、新入団員が迷うのは当然です。その際に「私たちはこれだけの成績を収めている素晴らしい団体なのです」と言えるかどうかは、入団を納得させるうえでの一つの殺し文句となるでしょう。

五つ目は、指導者の指揮者にも「箔が付く」ことです。指揮者として生きていくうえで、自分が指揮をした団体が上位入賞をすれば、プロフィールに堂々と書けますし、他団体から声をかけてもらえる機会も増えるでしょう。

一方で悪い面、もっと踏み込んで言えば、コンクールが日本の合唱を歪めている面があると思います。例えばDNA的に近い韓国には、日本のような合唱コンクールはありませんが、韓国からは欧米で活躍する声楽家がたくさん出ていて、日本は声楽面では完全に追い越されています。コンクールが声楽の発展に結びついていないのです。

そもそも合唱の評価は主観のみであって、客観的な基準があるわけではありません。根本的な問題として、芸術に機械的に順位をつけていくことなど可能なのでしょうか。実際に審査員によって結果は全く変わります。例えば、昨年の東京都合唱コンクールの審査結果が公表されていますが、大学ユースの部が特に「荒れた採点」になっていて、早稲田大学コール・フリューゲルと東京工業大学混声合唱団コール・クライネスがともに2名の審査員が1位をつけていますが、ブービーまたは最下位を付けた審査員もおり、全国大会への出場を逃しています。審査員によってこれほど違いがあるのです。そして誰も1位をつけていないが、平均的に票を集めた中央大学混声合唱こだま会が総合で1位になり、全国大会に進んでいます。

https://tokyochorus.com/event/concour/result/

このような結果になるのは採点方式の問題もあります。順位をつけるためには、数値化の採点方式を定めなければなりません。東京都合唱コンクールは「総当たりリーグ戦方式」、全日本合唱コンクールは「新増沢方式」が採用されています。

総当たりリーグ戦方式について(全日本合唱連盟のページ)

https://jcanet.or.jp/event/concour/league.htm

新増沢方式を解明する(全日本合唱連盟のページ)

https://jcanet.or.jp/event/concour/shinmasuzawa-kaisetu201001.htm

先述の東京都合唱コンクールを仮に同じ点数で「新増沢方式」で採点したら(同位を許容しないので採点し直しが必要なためあくまでも「仮」ですが)早稲田大学コール・フリューゲルが1位になります。このように採点方式のみで順位が変わってしまうので、絶対に正しい採点方法や順位などあり得ないのです。

また、「総当たりリーグ戦方式」「新増沢方式」ともに問題を抱えています。双方とも基本は順位ごとの多数決です。また、双方とも順位点のみなので、レベルが大きく違っていようが、僅差であろうが、順位差の1点としてしか反映されません(「総当たりリーグ戦方式」は同位を許容するので若干の影響はありますが)。レベルを順位点差に反映させる方式であれば、早稲田大学コール・フリューゲルか東京工業大学混声合唱団コール・クライネスが1位になったかもしれません。

現状の採点方式の結果何が起こるかというと、なるべく多数の審査員に気に入ってもらうために、できる限り無難な線を狙うことになります。過去に良い成績をとった団体の選曲をマネて、発声をマネて、解釈をマネしていきます。もうこの時点で、音楽が芸術であるという中心点から外れています。

選曲については、特定の作曲家に偏っていることは昔から周知の事実です。しかし仕方ない面もあるでしょう。選曲の失敗例として、昔、中学3年生だった時、吹奏楽部のコンクール地方大会を聴く機会がありました。その年の我が校は前評判も高く、本番も技術的に素晴らしい出来でした。しかし全く入賞しませんでした。自由曲はストラヴィンスキー『春の祭典』抜粋。審査員の講評に「こんなグロテスクなものは『音楽』とは認めません」と書いてありました。嗜好に合わなければ門前払いです。入賞校はどこもコンクール用に作曲された曲を選曲していました。吹奏楽と合唱の違いはありますが、状況は全く同じです。コンクールとはそんなものです。

合唱の発声についても、もともと発声法については様々な「流派」がありますから、特定の人間の声が目立つと嫌われる可能性が高いです。本来、独唱も合唱も発声の基本は同じはずです。そして、みんな持っている声が違いますから、正しい発声をすれば、それぞれ違う声が出るはずです。しかし、団体によってはその違いを許容せず、プロの声楽家を目指せるような声を持った団員など、良い声ほど逆に疎まれて、目立たないように声を削られてしまったり、発声を捻じ曲げられてしまうことが生じます。これがコンクールの名門の合唱団において、プロを何人も輩出するところと、全く輩出しないところと、両極端に分かれる理由の一つではないかと私は睨んでいます。もしもプロ合唱団がコンクールに出たら、アマチュアよりも成績が悪いかもしれません。そんなことがまかり通っているのです。

また、多数決が基本であることから、解釈についても個性的なものは避けられて、無難で無味乾燥な演奏が目指されてしまいます。本来、芸術は個性の発露であって、例えば「あの指揮者だったらどんな解釈をするのだろう」などと想像する楽しみがあるものです。ところがコンクールにおいては、無個性でつまらない演奏の方が上位にランクされてしまう危険性が常にあるのです。

さらには、採点表が公表されるコンクールで、ミスやアインザッツのずれは命取りです。誰にでも判りやすい欠点のため、順位を考慮するうえで影響が大きくなります。そのため、某社会主義国的な一糸乱れぬ演舞(演奏)が、より多くの審査員に好まれます。でも、そのような審査員は、フルトヴェングラーも高く評価しないのでしょうか?

おそらく、「コンクールは世界中で行なわれているではないか」、という反論があると思います。世界で広く行なわれているコンクールの大半は、若手の登竜門として、優れたプロの卵を発掘するためのものです。ですから功成り名遂げた音楽家・音楽団体がコンクールに出ることはありません。日本のコンクールは日本独自に特異に発展し、ガラパゴス化したシロモノなのです。以上のように、日本のコンクールは声楽や音楽芸術の発展を阻害している面も大きいと私は考えています。

では、私たちはどうしたら良いのでしょうか。

まずは、日本のコンクールは上記のような様々な問題を孕んでいるのですから、歌う側も、聴く側も、順位を絶対視せず、あくまでも一つの参考に過ぎないと割り切ることが必要です。当たり前ですが、コンクールが合唱の全てではありません。

できれば各合唱団の皆さんはYouTubeに音源をアップしてください。そして聴く側の方々は、コンクールの成績ではなく、自分の耳でその合唱団の実力を判断してください。他人の評価に振り回されてはいけません。

コンクールの良い面で挙げた1点目の「目標」については、コンクールである必要はありません。日本中のほとんどの名立たる音楽家・音楽団体が目標にしているのは、コンクールではなく、一期一会の演奏会でのお客様との触れ合いです。審査員ではなく、お客様に聴いていただくことが目標です。これも当たり前のことではないでしょうか。

2点目、3点目の他団体との交流や集客については、他団体とのジョイントコンサートをお勧めします。刺激になりますし、勉強になるのはコンクール以上かもしれません。

4点目の団員募集や、5点目の指揮者の実績づくりについては、どうしても「コンクール入賞」というお墨付きがほしい、という意見もあるでしょう。「自分(たち)の実力を試してみたい」と思われるのも自然かもしれません。コンクールに出ることを否定はしません。音楽芸術は勝ち負けではなく、コンクールに「勝つ」ことを目標にするのは間違っているとわかってはいても、出るからには良い成績をとりたいと思うのも当然でしょう。そこで提案です。まずはコンクールに出るのは仕方がないとしても、一定の功成り名遂げたらコンクールを「卒業」するのです。そして「卒業」したことこそ一流の証として、あとは存分に個性を発揮した演奏を繰り広げていくのはいかがでしょう。一時は実際に大学合唱においてそんな時代がありました。今は関学グリーや同志社グリーがコンクールに復帰して時代が逆戻りしていますが、今一度コンクールについて見直してみてほしいのです。現在はSNSが発達し、前述のYouTubeをはじめ、様々な情報発信が可能となりました。コンクールの成績だけに頼らなくても、様々なアピールは十分可能なはずです。このサイトも、そのために少しでも役立つことを願って作成しているものです。

昔、畑中良輔先生は言いました。「僕は慶應にコンクールに今まで出ろとも出ようとも言わないのは、やっぱり音楽は数で決まるものでないから嫌なんですね。それに人と比べて自分がどうだとかすぐ気にする人間になってほしくない」。畑中先生だから、慶應ワグネルだからそう言える、と思われる向きもあるでしょう。しかし畑中先生がコンクールについて肯定的な話をしていたのは、私の記憶では会津高校の「ゆうやけの歌」のみです。会津高校ほどの次元の違う演奏であればまだしも、そうでなければコンクールは弊害が大きい。声楽界の頂点を極め、数々のコンクールの審査員を務めた畑中先生でさえも、そのように仰りたかったのだと、私は信じています。