第32回東西四大学合唱演奏会(東西四連)(1983年)における早稲田大学グリークラブ(ワセグリ)の空前絶後の名演奏『繩文(縄文)』(男声版初演)です。以前の項でも何回か触れてきましたが、断片的に書いてきてしまったので、ここでまとめておきたいと思います。
なぜかというと、歴史的かつ伝説的な名演として、これからも語り継がないといけないと思うからです。この演奏を聴かずしてワセグリを、いや合唱を語ってはいけないのではないでしょうか。それほどの衝撃的な演奏です。
狂気の演奏という方もいます。いや、狂気なら人間のものです。すでに狂気を超えている。人間の営みを超えている。私はそれを表現できる手段をもはや持ち合わせていません。
脳天を叩き割る衝撃、背中を流れ落ちる汗、硬く握りつぶしたこぶし。たぶん聴いているうちに、毒が全身に廻ってきて、ふだん見えないものまで見えるようになったのでしょうか。人間のはらわたの限り無い汚さとか、その汚いはらわたの鮮血のあまりの美しさとか。
それとも、ふだん聴こえないものが聴こえるようになったのでしょうか。闇を切り裂く人間の叫び声の醜さとか、その中から聴こえる神様の恩寵のささやきとか。
あるいは、今まで私達は何も見ず何も聴いてこなかったのかもしれません。今までのものは全て幻だったのかもしれません。ようやく人間の真実のカケラをわずかに感じられるようになっただけなのかもしれません。
この演奏が幻覚ではなくて、実在の音楽としてこの世に存在したというのは、奇跡なのか、悪魔の仕業なのか。この演奏で救われた人もいるでしょうし、人生を狂わされた人もおそらくいるでしょう。音楽とは、いや、人間とは、これほどまでに恐ろしく、かつ、いとおしいものなのでしょうか。
私が慶應ワグネルに入団したとき、すでにこの演奏はダビングされたカセットテープが出回っていて、それを初めて聴いたとき、気が遠くなるような衝撃を受けました。しかし、その話を日本女子大学のお姉さま(先輩)にしたところ、「私は録音を聴いてがっかりした。本番を生で聴いたときはあんなものではなかった」と言われて、ワセグリの底知れぬ次元の違いを思い知らされ、私はよけいに恐ろしくなったのです。
演奏が終了した後の長い沈黙。聴衆の皆さんは、もはや拍手をすることも、ブラボーを叫ぶこともできなかった。会場全体が異世界に飛んでいたのでしょう。
これほどまでの演奏をこの世に残したワセグリが、我ら慶應ワグネルの好敵手であることに、心から幸福を感じます。