なぜ長野県民はみんな県歌「信濃の國」を歌えるのか(Echotamaのブログ)

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「なぜ長野県民はみんな県歌『信濃の國』を歌えるのか」という文章を書き始めたら収拾がつかなくなりました。まるでリヒャルト・ワーグナーが『ジークフリートの死』という楽劇を着想したら四夜16時間にわたる『ニーベルングの指輪』が出来上がってしまったかのようです。連休中お暇があればしばしお付き合いください。

序夜「複雑怪奇な『長野県』」

私の故郷の長野県は複雑怪奇な県なのです。畑中良輔先生のように立原道造の繊細で爽やかな詩のイメージを思い浮かべていただくのも一面は事実で有り難いことではありますが、渦巻いているのは混沌と飢餓と殺戮と暴動です。根底にあるのは「血みどろの内部対立」なのです。言わば長野県は日本の中のオーストリア=ハンガリー帝国なのです。

長野県は北信・東信・中信・南信に4地方に分かれます。「信」は信州信濃の信。他県のように県北とか県南とは死んでも言いません。県庁所在地の長野市は中信ではなく北信に位置します。自分を「長野県民」だと思っているのは長野市周辺の住民だけです。他の住民は出身を訊かれると「信州です」と言い、「長野です」とは言いません。とりわけ中信・南信はその傾向が強いです。

第一夜その一「血みどろの内部対立の歴史」~江戸時代

信濃國はもともと統一性と核を欠いているのです。律令制で信濃國が成立したとき、国分寺が上田市(東信)にあったことははっきりしていますが、国府の場所すら松本市(中信)という説が有力なものの、元は上田市あるいは千曲市(北信)にあって移転したなど諸説あり定まっていません。宗教面でも、仏教の中心は長野市の善光寺ですが、創建時は飯田市(南信)の元善光寺で、勅命で180kmも離れた今の地に移されたそうで、理由は不明です。神社の中心は諏訪大社(南信)かと思いきや、信濃國一宮を名乗る神社は他にも上田市に2社、松本市に1社あってバラバラです。

また、長野県民同士で殺し合いばかりしています。源平合戦では源義仲(木曽義仲)挙兵の際も長野市で殺し合い。鎌倉幕府が倒れた後は北条一族の残党が信濃國で蜂起を繰り返し、ついには最後の執権北条高時の遺児を擁して鎌倉を陥落させた中先代の乱に始まり、その後は南北朝の乱で南信は南朝の宗良親王の拠点となります。戦国時代を迎える前も足利将軍から派遣された守護を巡って豪族同士が内乱(大塔合戦)。戦国時代は諸豪族乱立からご存じ川中島の合戦に至るまで、昨日の味方は今日の敵。県民同士で裏切り、寝返り、殺し合い続きです。

江戸幕府の時代はのべ18藩の小藩分立や天領・旗本・國外の藩の飛び地に至るまでモザイク状の状態に。高地性の気候と天災続きで安定的な耕地は限られています。米作が可能な低地は数年に一度は洪水に見舞われます。次男坊以下は片道切符で江戸に出て蕎麦屋か丁稚奉公をするしかありません。江戸で失敗して田舎に帰ると居場所がないので「都落ち」と嫌われます。仕方なくコメが作れない高地を切り開いて桑畑を作って蚕を飼うか、ソバを作るか、炭焼きをするしかありません。長野県は教育県と言われ、実際に明治初頭は寺子屋の普及率が全国一だったそうですが、理由はコメが穫れないためで、生糸・炭をコメと交換する取引や、江戸への移住をする際に、読み書き算盤ができないと生きていけなかったからだと私は推測しています。それでもダメならすぐにムシロ旗を掲げ、騒動(一揆)を起こし焼き討ちや打ち壊しを頻発させます。私は次男坊ですが、上京する際に母に「昔は次男坊は『二度と家の敷居を跨ぐな』と言われて送り出したものよ」と真顔で言われました(本当)。

第一夜その二「血みどろの内部対立の歴史」明治維新以降

長野県の成立過程もメチャクチャです。まず北信と東信が中野市(北信)を県庁所在地にして中野県が成立しますが、明治維新後にも信濃國では世直し一揆が多発。中野県庁は焼き討ちに遭い県吏が殺され、県知事は東京に逃げて行く有様。県庁は仕方なく善光寺の末寺の寺所地であった長野村に移されます。善光寺詣りの経験者はお判りかと思いますが、善光寺周辺はブラタモリでおなじみの扇状地の坂です。稲作に向かない長い野原なので「長野」。そこに荒地が余っていたのですね。善光寺は知っていても、そのあたりが長野村という名前だったなんて、この文章を書くまで私も知りませんでした。それが県の名前になってしまったのです。

一方、中信と南信は飛騨國と合わせ、松本市を県庁所在地として筑摩県が成立し落ち着きました。しかし5年が経過した明治9年に筑摩県庁が謎の放火に遭い焼失します。執務の継続が困難と判断した明治政府は筑摩県を分割し、「同じ信濃國だから」と、中信と南信の意に沿わぬまま松本市の県庁は廃止され、チクマという信濃國の美称の一つである由緒ある名前を消され、名前も知らない長野県に編入されて、県庁は遠い長野市に移ってしまいました。中信と南信の人間は「放火したのは長野の人間に違いない」と現代でも信じています(本当)。そして未だに「長野」は使いたがらず「信州」と言うのです。例えば田中康夫元長野県知事は在任中に「『信州県』に改名したら?」と提案しています(これも本当)。田中氏は松本市育ち(後述の信州大学教育学部附属松本小学校、中学校、松本深志高校卒)です。

以来、事ある毎に地域同士が対立し、県議会場は乱闘が当たり前。とりわけ国の機関の誘致は激しい争いです。中でも長野市と松本市の対立は凄まじいです。その結果、道府県に一つずつの日本銀行支店は松本市(道府県庁所在地以外の支店は他に小樽市と下関市のみ)、長野県下最初の国立学校は上田蚕糸専門学校(長野市と松本市も立候補して争いましたが両方外されました)、初の旧制高校は松本高等学校。こうなると県庁所在地の長野市が黙っていません。師範学校が長野と松本並立だったのを、政府が1898年に「1県1校」と政令を出したのを機に長野市に分捕ります。こうなると松本市も許しません。ただちに7年後の1905年、その女子部を分離させ、男子部は長野、女子部は松本として「1県1校」の政令をかいくぐるという離れ業をやってのけています。

このせいで戦後の新制大学の名前は信州大学(県や県庁(北海道は振興局)所在地の名前がついていない国立大学は、他には北見工業大学、小樽商科大学、弘前大学、筑波大学、お茶の水女子大学、電気通信大学、一橋大学、琉球大学のみ。ちなみに筑波大学の前身は東京教育大学、一橋大学の前身は東京商科大学)となり本部は松本市。1年生は全員松本キャンパスの「全学教育機構」で学ばなければならず、松本キャンパス以外の学部生の大半は2年生以降は引っ越さなければなりません。教育学部は戦後に長野市に置かれましたが、附属小中学校は長野市と松本市の双方に現在も存在しています。ちなみに信州大学教育学部附属松本小中学校は他県のように「○大教育学部附属」と言われることはまずなく、必ず「松本附属」と呼ばれ、校歌も「松本附属」と歌います。つまり長野ではなく松本に附属しているという意識なのです。

第二夜「『信濃の國』の誕生と定着」

こうした対立状況を問題視したのが長野師範学校の教諭だった浅井洌です。浅井は長野県内全体の文物を盛り込んだ郷土地理歌を作詞しました。浅井は旧松本藩士で、作詞した当時の師範学校は長野1校にされた直後の1900年。対立の真っ只中で、松本と長野の双方に足場を持っていたわけです。つけたタイトルは「信濃の國」。多民族が争いに明け暮れたオーストリア=ハンガリー帝国が唯一拠り所としたコンセプトが「ハプスブルク帝国」であったように、長野県民が共通の拠り所にできるコンセプトは唯一「信濃の國」だったのです。そこに浅井と同じく長野師範学校の教諭だった北村季晴が曲をつけました。そして「信濃の國」は郷土地理歌から長野師範学校附属小学校の校歌となり、師範学校の生徒たちは必ず歌えるように指導されました。そして教師たちは全県へと赴任していき、県内全ての小学校の入学式・卒業式・運動会等のあらゆる学校行事で「信濃の國」が歌われるようになったのです。ちなみに現在でも信州大学教育学部附属長野小学校の校歌は「信濃の國」です。

中信・南信(旧筑摩県)が県議会に分県案を提出したのは1度や2度ではなく、第二次大戦後の1948年にも起こっています。このときは県庁舎の一部が焼失したのがきっかけでしたが、中信・南信の議員の頭の中には、旧筑摩県庁焼失により長野県に編入された出来事が思い浮かんだのは疑いないでしょう。しかもこのときは県議会特別委員会が分県案を可決し、本会議に上程され、採決に持ち込まれました。分県反対派は牛歩戦術で対抗。当然(?)ながら議場は大乱闘。そのとき傍聴席で「信濃の國」の大合唱が始まり、議場はさらに大混乱になり流会になったと言われています。「信濃の國」が分県を阻止したと言えなくもありません。

第三夜「これからの『信濃の國』」

今も長野県の一体感を醸成する努力は続けられており、学校教員や県職員などの人事は、北信・東信出身者は中信・南信へ、中信・南信出身者は北信・東信へ赴任させるなど、様々な工夫が成されています。そして「信濃の國」は歌い続けられています。長野県が2015年に実施した県政モニターアンケートによると、「信濃の國」を部分的にも含めて「歌える」とした回答は90.7%に上り、歌えないが「メロディーは知っている」との回答も含めると認知度は98.1%に達しているそうです。ただ、これを裏返せば、いまだに拠り所にできるコンセプトは唯一「信濃の國」でしかないということなのでしょう。

信州信濃推しは、他にも、県紙(新聞)は「信濃毎日新聞」。日本テレビ系列の放送局は「テレビ信州」(本社は2007年まで松本市にありました)。JR東日本のキャッチコピーは「春の信州は列車がいいね!出かけませんか?特別な信州へ!」。本丸の長野県庁でさえ長野県産業労働部(県のイメージアップの責任部局)は「しあわせ信州」と題して「信州ブランド戦略」をやっているし、長野県観光機構は善光寺御開帳の今春の長野県知事メッセージは「ようこそ、春の信州へ!」。BCリーグの野球チームは「信濃グランセローズ」。Bリーグのバスケットチームは「信州ブレイブウォリアーズ」。枚挙にいとまがありません。これほど旧國名推しで現県名を嫌う県が他にあるでしょうか?

皆さんの周囲に長野県出身の方がいたら、「『長野』出身ですかー」と言ってはいけません。危険です。不機嫌に「いいえ『信州』です」と苦笑いされる可能性があります。「信州ですかー」と言ってください。これならほぼ間違いないです。ややこしくて本当に申し訳ありません。

<おまけ>

前記で「ほぼ」とつけました。何でも例外があります。中野・飯山地方(北信)は必ず「奥信濃(オクシナノ)」と言います。「奥信州」とは絶対に言いません。「私の実家は猿が温泉に入っている地獄谷温泉に近い方」と言われたら気をつけてくださいね。「雪が多くて大変ですね」「志賀高原サイコー」「猪瀬直樹の出身地は近いですか」「作曲家は昔は中山晋平、今はジブリの久石譲ですよね」と言えば多分すごく喜びます。

また、木曽地方(一応分類上は中信)は昔は美濃國で明治維新まで尾張藩領でしたし、今でも生活圏は岐阜県中津川市です。島崎藤村の生地の旧山口村などはついに中津川市に越県合併してしまいました。文化も独特です。「信州ですかー」というと「うちは信州ではあるけど他とはずいぶん違うから」と、ちょっと困った顔をされると思います。「島崎藤村ですねー」「最近は俳優の田中要次や相撲の御嶽海とか有名ですよね」と言えばバッチリです。