ピアニスト久邇之宜先生を悼む(Echotamaのブログ)

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 2月15日の久邇之宜(くに・ゆきのぶ)先生の訃報に接し、心からお悔やみ申し上げます。まだ71歳。あまりにも早い旅立ちに、惜しい方を亡くしたと、残念でなりません。(以下、一部敬称略となりますがご容赦ください)

 久邇之宜先生を語るうえで、ご出身のことを避けて通ることはできないでしょう。事情通の方は、香淳皇后(昭和天皇の后)が皇族の久邇宮良子女王(くにのみやながこじょおう)であったことをご存じだと思います。その妹君の信子女王(臣籍降嫁後は三条西信子)が久邇先生の祖母です。すなわち久邇之宜先生は今上天皇の「はとこ」にあたります。

 久邇宮家は音楽に秀でるDNAをお持ちのようで、信子女王の妹で本願寺の大谷家に嫁いだ智子女王(臣籍降嫁後は大谷智子裏方)は自ら作詞者兼歌手としてレコードの吹込みを行うとともに、合唱グループ「大谷楽苑」を創立しています。ちなみに大谷楽苑の指導者は木下保先生で、指揮に任るとともに多くの讃仰歌を作曲しています。また、同じく信子女王の弟の邦英王(臣籍降下後は東伏見慈洽)もピアニストととしてレコードの吹込みを行っています。

 一方で久邇之宜先生は、品格の高い貴公子ではありましたが、戦後の昭和25年のお生まれということもあってか、フランクにお付き合いいただける方でした。私は慶應ワグネル以外の合唱団でも久邇之宜先生とお付き合いする機会がありましたが、練習後に汚い居酒屋でも同じ目線でお話いただける、頼りになる兄貴分という存在でありました。

 久邇之宜先生は、エリーザベト・シュヴァルツコップが来日したコンサートを聴きに行き、ジェフリー・パーソンズのピアノに感動して、共演ピアニストになろうと心に決めたそうです。記録を調べるとエリーザベト・シュヴァルツコップが来日したのは1968年4月5日、東京文化会館。ちょうど久邇之宜先生が学習院高等科から国立音楽大学ピアノ科に入学したときです。既にそのときから共演ピアニストとしての道を歩み始めていたのです。クロイツァー豊子(レオニード・クロイツァーの奥様)、近藤孝子の姉妹(旧姓織本、ともに国立音楽大学教授)にピアノを師事し、小林道夫に伴奏法を師事されました。

 卒業後まもなく、畑中良輔先生門下であるソプラノの曽我栄子先生(現・国立音楽大学名誉教授)の全リヒャルト・シュトラウスリサイタルのピアニストが急遽キャンセルになり、畑中先生が久邇之宜先生に「あなた弾いてみない?」と声をかけたのがデビューのきっかけだったと聞いております。お二人がどこで知り合われたのかは存じませんが、畑中先生のことですから「あら、随分いいピアノを弾く子がいるわね」と目をつけていらっしゃったのでしょう。リサイタルは成功裡に終わり、朝日新聞、音楽の友等の誌上で賞賛されたそうです。

 その後は二期会、東京室内歌劇場のコレペティートルを務める傍ら、時には東京室内歌劇場の本番のステージにも乗り、数多くの合唱団、声楽家のピアニストを務め、第一人者として揺るぎない地位を築かれました。さらにはそれにも飽き足らずウィーン国立音楽大学に留学し(つまり先日NHK第九のソロをした谷口伸君の先輩)研鑽を積まれています。

 久邇之宜先生は福永陽一郎先生、北村協一先生などと親密だったので、早稲田、同志社、立教、モル(慶應ワグネル女声)との共演歴がきわめて多く、慶應ワグネル男声からみるとの他団体のピアニストとしての印象が強いと思います。他団体の演奏に感動・感心するうえで、久邇之宜先生のピアノの影響はきわめて大きかったことでしょう。しかし慶應ワグネル男声でも現役・OB合唱団合わせて26回もの共演歴があり、実はとても近しい関係だったのです。

 久邇之宜先生のピアノは豪胆かつ繊細で、正確で安定したテクニックの一方で、歌い手の表現をさらに増幅してくれる感受性と情感を備えた素晴らしいもの でした。そのピアノに支えられて私たちは木下保先生・畑中良輔先生の音楽世界に安心して身を委ねることができたのです。特に、畑中先生最後のステージとなった感動的なブラームスの『運命の歌』がつい昨日のことのように思い起こされます。あらためて、これまでの久邇之宜先生のご指導・ご貢献に対して、大いなる感謝を申し上げたいと存じます。

 これからも天国で素晴らしい調べを奏で続けつつ、安らかにお過ごしください。ご冥福をお祈り申し上げます。