こんなトンデモない問いを思い浮かべてしまいました。
もちろん、「合唱は芸術ではない」と言いたいわけではありません。私が問いたいのは、芸術とは何かということです。
この問いはあまりにも大きく、私がゼロから定義することはできません。そこで先人の知恵をお借りします。乱暴な要約になることはお許しください。
アドルノは『美の理論』において、芸術は容易に理解されるものではなく、鑑賞者に思考を要求するものだと考えました。ハーバーマスは『コミュニケーション的行為の理論』において、意味は対話のプロセスの中で成立すると考えました。ガダマーは『真理と方法』において、芸術作品は鑑賞者との出会いの中で意味が実現すると述べています。
もちろん、この三者の立場は同じではありません。むしろ対立する部分も少なくありません。しかし私は、彼らの議論を読みながら、「芸術は創作者だけで完結するものではなく、受け手との関係の中で成立する」という共通の問題意識を感じています。
もしそうであるならば、私は芸術を次のように考えたいのです。
芸術とは、創作者と受け手との対話によって共同体が立ち上がる営みである。
この立場に立てば、BLACKPINKが東京ドームを四日間満員にし、ユーミンや浜田省吾が十万人規模の観客を魅了することも、一つの芸術現象と考えることができます。私が言いたいのは、動員数が芸術性を保証するということではありません。作品が聴衆との対話を生み、一つの共同体を形成しているということです。(もっとも、文化産業を批判したアドルノは、この点について異論を唱えるかもしれません)
ご記憶の方がいれば嬉しいのですが、以前「作曲家の構造支配性」について投稿しました。そこにも同じ問題意識がありました。
詩は、本来、読者の想像力によって世界が広がる芸術です。しかし曲が付くことで、その広がりが作曲家の解釈の枠内に収められてしまうことはないでしょうか。くだけて言えば、「詩だけのほうが面白い」という逆転現象は起きていないだろうか、という問いです。
もちろん、音楽によって詩の世界が何倍にも増幅される作品が数多く存在することは言うまでもありません。私が問いたいのは、その逆が起きていないかということです。
この問いを、今度は合唱へ向けてみます。
SNSなどで演奏会の感想を読ませていただくと、「上手だった」という言葉で終わっているものを少なからず見かけます。
もちろん、技術は重要です。以前投稿した舞台ドイツ語の話もそうですが、技術は作品と聴衆との対話を成立させるための重要な前提です。しかし、それはあくまでも手段であって、目的ではありません。
例えば『赤毛のアン』を読んで、「モンゴメリは文章が上手い」で終わる人がどれだけいるでしょうか。バイロイトで『ニーベルングの指環』を観て、「ワーグナーは作曲技法が上手い」で終わる人がどれだけいるでしょうか。私たちは、その作品から何を受け取り、自分の中で何を考えたのかを語ろうとするはずです。
では、合唱はどうでしょう。
もし聴衆が「上手だった」という感想しか持ち帰れなかったとしたら。
もし歌っている側も、「上手く歌えるか」だけを目標にしていたとしたら。
そこに作品を介した双方向の対話や共同体は成立しているのでしょうか。
あるいは、私たちは知らず知らずのうちに、合唱という文化を狭いタコつぼの中へ閉じ込めてしまってはいないでしょうか。
それは、本当に「芸術」と呼べるのでしょうか。
