父の10回目の命日(Echotamaのブログ)

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またいつもの個人的な長文です。今日6月11日は私の亡父の10回目の命日なのです。

高校に入ると父が勤めている中学の卒業生と一緒になります。「お前の中学校にXXっていう数学教師いなかったか?」「ああ、俺は数学を教わったよ。あの面白い先生な」「面白い…?」私は想像だにできませんでした。

私の子供時代、父は毎日眠るまで酒を飲み、昔話でしつこくくだを巻き、「勉強しろ」と殴る存在でしかありませんでした。私は「金物屋の系統で頭のおかしな子がいる」と噂されていましたし、極度の運動音痴で、授業態度がひどかったから通知票はボロボロ。小学校のときから歌ばかり歌っていましたから、「音楽をやる人間は二流」と公言して憚らない父からすれば最初からあきらめられていました。「恥ずかしくて先生方に合わせる顔がない」(田舎教師は狭い社会なのでみんな顔見知り)と言って父親参観の日に来たことは一度もありませんでした。

野球部の顧問を長くやった父の理想は、スポーツで体と根性を鍛えて、そのエネルギーを勉学に注ぎ込む生徒でした。おかげで兄への対応は「あきらめられていない」分だけ、私とは比べ物にならない厳しいものでした。また、同じ兄弟なのにスポーツ万能だった姉は、父のプレッシャーを一手に引き受けるはめになりました。

父は39歳の時に胃癌を患い、胃を全摘しています。リンパ節にも転移していました。祖母と母は医師に「覚悟してください」と言われ、母は当時まだ3歳だった私を見て「この子は父親の顔を知らない子になるのだな」と思ったそうです。よく再発しなかったものです。

ところが父は全く懲りず、快復後も酒を飲み続けました。そして私の浪人中、検診で肝臓の数値がひどいことになっていて「肝硬変で当面絶対安静、即入院」ということになりました。

ずいぶん後になってC型肝炎だとわかり、おそらく胃癌の手術のときの輸血が原因だろうということになったのですが、入院当時まだC型肝炎は解明されておらず、本人を含め誰もが「あれだけ酒を飲んだ報いだ」と思ったのでした。それから急に父は人が変わったようになりました。

ある日、父を病院に見舞ったら、「NHKのシルクロードの音楽が聴きたい」と言うのです。信じられず、耳を疑いました。あれほど音楽を毛嫌いしていたのに。しかもシンセサイザーとは!

貸しレコード屋でNHK特集のサウンドトラックアルバム・喜多郎の『シルクロード・絲綢之路』を借りてダビングし、カセットデンスケとヘッドホンを渡しました。退院してからも「これはいい曲だ」と言って何度も聴いていました。なんだ、本当は音楽が好きなんじゃないか。

シルクロード~絲綢之路~

  • 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
  • 発売日: 1995/07/21
  • メディア: CD

私が某大学の受験に失敗し、慶應に行こうとしたとき、予備校や親戚から「もう1年頑張れ」という圧力がかかって揉めにもめました。父も本音はもう1年頑張ってほしいようでした。父に言いました。「たぶん神様が『学者になるのはやめて、実業界に行きなさい』と言ってるんだよ(当時の私は某大学に入って学者になるのが目標でした。我が家には妹もいて私立で博士課程まで行く経済的余裕はなかったし、当時すでにオーバードクターの問題が顕在化してきていて、某大学に行けなかったら学者はやめて民間企業に勤めるべきだと決めていたのです)。私立で金がかかるけど4年で社会に出る。慶應なら歌もやりたい。慶應に行かせてほしい」。父は「わかった」と言ってくれました。

慶應ワグネルが長野で演奏旅行をしたときも、実家の負担は少なからずあったのですが、全面的に協力してくれました。そして就職して長野に転勤して実家に転がり込んだとき、「正直お前には期待していなかった。これまで殴ったりして申し訳なかった。本当に悪かったと思っている」と謝ってくれました。

考えてみれば、父の育った時代は、憲兵に殴られるのは当たり前。音楽と言えば国民歌謡か軍歌。ピアノを弾くだけで非国民と言われたのですから、父のような親になるのもある程度仕方がなかったのかもしれません。物理的な暴力も心理的な暴力も連鎖します。育った時代さえ違っていれば、父も音楽を楽しむ感性豊かな人間として育ったのかもしれません。