芥川賞と直木賞が発表されました。
慶應ワグネル出身者は合唱やクラシック音楽好きが多いのは当然として、文学好きも少なくないのではないかと思います。私自身も、畑中良輔先生から少なからず「洗礼」を受けた一人です。
夏合宿で《草野心平の詩から》を練習している最中に、「あなたたち、福永武彦の『廃市』は必ず読みなさい」と言われるのですから。詩から散文へと跳躍する、その背後には濃密な文学への敬意がありました。
芥川賞と直木賞は、文藝春秋の社長だった菊池寛が創設した賞ですが、いまや純文学とエンターテインメント小説、それぞれの最高峰として社会的な権威を持つに至っています。
その出発点をもって「不純だ」と言うつもりはありません。文学も作家という営みも、商業主義なしには成り立たない現実がありますし、受賞を契機に大きく飛躍した作家が数多くいることも事実です。
ただ、ここで一度立ち止まって考えてみたくなります。
文学の良し悪しは、順位をつけられるものなのでしょうか。
比較にはモノサシが必要です。しかし芸術には本来、一本のモノサシはありません。要素に分解し、測れそうな部分を探していくと、どうしても技巧面に比重が寄ります。一方で、思想の深さ、読者への哲学的問いかけ、生きることの意味、心の奥底に触れる感動――こうしたものは、どうしても比較が難しい。
この構造は、合唱コンクールと驚くほど似ています。
朝日コンクールもNコンも、全国大会では順位点によって機械的に順位が算出されます。前回の芥川賞と直木賞では、合議の末に両賞とも「受賞なし」という結論になりました。技巧面のモノサシすら当て切れず、「選ばない方が誠実だ」という判断に至ったのかもしれません。
畑中良輔先生は、こうも語っていました。
「芸術は本来、比べるものではない」「芸術は数で決まるものではない」。
誤解してほしくないのは、畑中先生ご自身が数多くのコンクールで審査員を務め、コンクールの意義を十分に理解したうえでの言葉だということです。
芥川賞や直木賞の価値を認めたうえで、あえて言いたいのは、それだけが最終審級ではないということです。
合唱でも、コンクールに出ない優れた団体は確かに存在します。文学でも、太宰治や坂口安吾は華やかな受賞歴を持ちませんが、その作品は今なお長い生命を生き続けています。ノーベル文学賞受賞者の大江健三郎は芥川賞を受賞していますが、受賞作「飼育」と、その後に展開された大江文学の射程との間には、明確な距離があり、代表作と位置付けるのは難しそうです。
壇上に上がらなかった、勝たなかった――それは一つの側面にすぎない。
むしろ、壇上に上がらなかったからこそ、長く残るものもあるのかもしれない。
そんなことを、忘れないでいたいと思っています。
