會津ー信州信濃ー肥後熊本をつなぐ点と線 馬刺しの謎その2(Echotamaのブログ)

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昨日の馬肉の件について引き続き思い悩んでいます。なぜこんなにこだわるかというと、大げさで乱暴ですが、日本人の成り立ちと関係しているような気がするからです。いや、別にT先生にたきつけられたわけじゃないんですけど(笑)。

先輩がご指摘されたように、馬(日本在来馬)は古墳時代に大陸から対馬経由で導入されたようです。一方、昨今のDNAの研究から、現代人(日本人=ヒト)は基層民族(=縄文系。ルーツは諸説あり定まっていない。縄文時代から東西の差があった説も濃厚)に様々なDNAを持つ民族が何派にもわたって(=埴原和郎氏の『弥生系』という定義のみにとどまらず多層にわたる模様。ルートも複数あり?)日本列島に渡来してきているようです。外来のDNAは基層民族と思われるDNAの割合を凌駕して優勢となっている可能性が高いです。このあたりの論点は斎藤成也氏の『DNAから見た日本人』を参考にしましたが、斎藤氏もデリケートな問題であることを意識してか、かなり慎重な書きぶりです。私も同様に慎重に書きたいと思います。まわりくどくてすみません。

ただ、一言で言えば、馬は大陸由来。ヒトは日本列島外からの渡来優勢あるいは渡来後の増加ということのようなのです。共通点は「大陸」です(ヒトの場合は南西諸島経由(沖縄ルート)も考慮しないといけませんが)。

渡来系の流入に伴い、乱暴ですが、農耕に適したところは渡来系、それ以外は基層民族系という住み分けが成されたと一般的に考えられています。加えて、渡来系の増加(耕地の開拓)に伴い、基層民族系は渡来系と交わったか、さらに農耕に適さない場所への移住をしていったと思われます。私の故郷の信州では、プロパンガス普及以前、山間地の主要産業は「炭焼き」でした。すなわち農耕だけでは生計が立たない分を、煮炊きの燃料になる木炭を作って平地の米作地へ持って行き、コメなどと交換するという経済がつい高度成長期前まで長年続けられてきたのです。まだ正確にまとまった情報がありませんが、湿った耳垢、ヒト白血病ウィルスなど、基層民族系特有の身体的特徴がいわゆる「へんぴな場所」にしか分布しないことは、日本人が多層構造で構成されている証拠の一つと言えないでしょうか。

馬刺し

さて本題の馬刺し(馬の生食)です。グーグル先生で調べたところ、世界中で馬刺しは日本以外は済州島しか食さないようです。日本でも基本的には肥後、信濃、會津の三カ所にしかありません。肥後は海から近いところもあり微妙ですが、九州で山間地といえば肥後です。信濃と會津は代表的な山間地。要は「へんぴな場所」です(私も信州出身ということで失礼な言い方をお許しください)。そこに大陸由来の馬が農耕馬として伝わってきた。そして大陸どころか世界中探しても行なわれない馬刺しを食するようになった。なぜ生食を思いつき、それに抵抗がなかったのでしょうか?

日本人は魚を刺し身で生食する点も特徴的です。生食文化を持っていたのは大陸系とは考えにくいです。大胆に考えれば、基層民族系(=縄文系)が生食文化を持っていた。そして次第に山間地に追いやられていくが、生食文化は残った(ご参考までに信州では鯉などの川魚も生食します)。

鯉の洗い

そして農耕馬も働けなくなってきて食することになってしまったとき、同様にそのまま生食した……。すなわち馬刺しによって、肥後、信濃、會津は基層民族系(=縄文系)の古くからの習慣を山間地に残していると言えるのではないか、と思うのですが。

我田引水雨あられですが、信州の田舎に育った人間の一人として、日本人として、自分のルーツがどこにあるのか知りたくて……ご意見があればぜひお聞かせください。