ふと我が母校・長野県屋代高等学校のホームページを見てみました。
やはり毎年7月に行われる文化祭が中止になっていました。今年はNコン(NHK全国学校音楽コンクール)も、全日本合唱コンクールも中止。目標を失って悲嘆にくれている子たちがたくさんいることでしょう。
文化祭が7月ということを不思議に思われる方もいるかもしれません。これには思い入れがあるのです。
私が高校1年のとき文化祭は9月でした。合唱班(長野県では部のことを班と言う高校が多いのです)は3年生が9人、2年生が1人、1年生がYTさん、SIさん、SS君、私の4人で合計14人。とてもコンクールには出られないので、文化祭が最高の舞台でした。それに向けて、夏休みが練習の山場になるはずなのですが、3年生がきちんと集まらない。指揮者のA先輩ですら来ない始末。携帯電話など無い時代ですから、受験勉強してるのやら、してないのやら。しょうがないから、トランプでもしようかとか、コンパと称してポテチとジュースでダベったりとか。俺は歌いたいんだ!当然、肝心の文化祭も、演奏の質は低いし、聴衆も父兄やOBがチラホラいるだけ。
しかも3年生が抜けたあと、2年生のY先輩と、YTさん、SIさん、SS君は声楽のレッスンが忙しいので休部。私は1年生の秋にたった一人残されて、班長・指揮者・兼BASSパートリーダー。MKさんのお姉様は「私たちの合唱班が無くなっちゃう」と泣くし。しかも、毎週水曜日だけは合唱班が音楽室を使う取り決めだったのですが、吹奏楽班のO竹君が「まさかお前一人だけで音楽室使うわけないよな」と言うので、仕方なく音楽室を明け渡し、毎日音楽室から電気オルガンを抱えて空室の寒いプレハブ教室で一人で発声練習。周囲からは頭がおかしいんじゃないかと思われたでしょうが、自分が活動をやめたら合唱班が無くなる。俺は歌いたいんだ!新入生が入ってくるまで一人でも毎日歌い続けるぞ。こんな日々が一冬続きました。
お陰様で次の年、新入生も入って、同級生のYTさん、SIさん、SS君も戻ってきて、文化祭を前年と同じ14人で迎えることができました。しかしやはり3年生のY先輩は、夏休み中には来たり来なかったり。聞けば、名門の長野高校や上田高校は7月に文化祭をやっていて、そこで完全燃焼して、夏休み以降は受験に没頭する仕組みになっているというではありませんか。我こそはと思う輩は夏休み中に東京まで行って駿台の夏期講習を受けるとか。親は大変ですが、田舎から都会の優秀な受験生と対峙するには、そのくらいでないとかなわないと知りました。
同窓生の皆様には大変申し訳ないのですが、私は屋代高校には複雑な思いがあります。旧制中学からの古い歴史はありますが、昔は、最優秀層は長野高校や上田高校に行ってしまうので、屋代高校は三番手。北沢俊美元防衛相や赤池同窓会長のように、早稲田に入ればヒーロー。宮崎元同窓会長のように東京教育大(現・筑波大)に行けば超優秀。旧帝大なんてとんでもない。信州大学に入れば優秀で、地元志向が強く教員志望が多い学校でした。校風も質実剛健というのは良いですが中途半端でのんびりしたもの。信州大学教育学部附属屋代高等学校4年制(!)と言われていました。それに比べて長野高校卒で東京に就職した叔父(私にワグネルを紹介してくれた人物です)は垢抜けててカッコいい。
それが私が小学校4年のとき学区制ができて、長野にも上田にも行けなくなり、我が学区のトップ校は屋代高校ということになりました。初年度はおそらく長野や上田に行けなくなった悔しさからか、東大に5人入りましたが、以降は校風に馴染んでしまったらしく東大は1人か2人、ゼロという年もありました。まあ、浪人して東大落ちて慶應に行った私が言える立場ではないですが。
慶應ワグネルが長野市で演奏旅行をしたとき、チケット負担や広告出稿のお願いでOB訪問をすると「君は何期?」とかよく聞かれて、答えられないでいると「君は何期かも知らないのか?長野高校じゃないのか?えっ屋代?屋代から慶應に行けるわけないだろ。学区ができた?だったら上田に行けなかったのか。屋代が慶應に入ったら慶應の質が下がる」。長野勤務だった時もNTT-OBの関連会社社長から「屋代は引っ込んでろ。俺は(諏訪)清陵だ。息子は長野だ」。気を悪くされた屋代高校卒の皆さん、全て実話なんです。
高校2年だったときの私は、何が何でも長野や上田に少しでも追いつきたい、歌でももっと完全燃焼したい、そのためには文化祭を7月にしなければという一心に駆られました。調べたら文化祭は生徒会が文化祭実行委員会を組織して開催することとなっています。だったら生徒総会で文化祭を7月にすると決議すればよい、という結論に達しました。生徒会長に立候補しようと思ったのですが、親友のS田君が「アンタが生徒会長やったら合唱班まで手が回らんだろ。合唱班つぶす気か?」と言うし、K日君が生徒会長に立候補するという話があって、選挙をする気もなかったので、生徒会執行部ではあるが負担が少ない議長に立候補することにしました。もちろん公約は文化祭の7月開催です。信任されて執行部に入り、生徒総会で「本議案は可決されました」と議長の自分が言った時の嬉しさは今でも忘れられません。あれから約40年弱。いまだに文化祭が7月開催なのは(今年は中止ですが)感慨を覚えます。
高校3年の7月に文化祭を開催した後、次なる野望はコンクールに出ることです。文化祭のスカスカの聴衆ではなく、もっとたくさんの聴衆の前で歌いたい。俺は歌いたいんだ!とにかく人数を増やさなければ。TMさん、SKさん、F君、A君、MN君、S田君、HK君、ピアノはSMさん、他にも…結局22人まで増やしました。出場の手続きをしようとしたら、音楽のS木先生が「つぶれそうだった合唱班がいきなりコンクールに出るというので校長が心配している」と言うので、教師告発事件で仲良し(?)になったY川校長に、コンクールに出てよいか承諾をとりに行きました。「またお前か。本当に大丈夫か?学校の名を汚すなよ」と言われつつもOKをいただいて、小諸までNHKコンクールに行きました。結果は3校中3番目という残念な結果で、校長には申し訳ありませんでしたが、今では良い思い出です。
コンクールの功罪はあると思っていますが、一つの大事な目標であることは確かです。今年、何一つとして目標の無い年を過ごしている子供たちがたくさんいるのは、本当にかわいそうでなりません。