私は「集まれ合唱!」というFacebookグループに参加しているのですが、そこで「ドイツ語の R の発音、実は「巻き舌」じゃないと言う説。」という議論がありましたので、以下のように投稿させていただきました。こちらでも有識者の方にご意見を頂戴出来たらと思います。
「いろんな「第九」を歌っていると、指揮者によって今回の R は巻くか巻かないかが話題になります。このリンク先のオーストリア女性によると実は「舌」じゃなく「喉」らしい。ドイツ語に詳しい方、本当ですか?」
http://youtube.com/@mrfujifromjapan?si=w17x8RKkFEVOOfiU
【長文失礼】ドイツ語発音のご投稿について、スレが長くなり、様々なご意見が入り乱れているので、あらためて整理して投稿させていただきます。
お一方のご発言がありましたが、ドイツ語のRの発音が多岐にわたることを理解するには、舞台ドイツ語と口語ドイツ語を区別することが必要です。
舞台ドイツ語(Bühnendeutsch)とは、各地で様々だったドイツ語について統一的な発音を確立するために、1898年にテオドール・ジープス(Theodor Siebs, 1862–1941)がドイツ劇場協会(Deutscher Bühnenverein)やドイツ舞台人組合(Genossenschaft Deutscher Bühnenangehöriger)などと協議し、『ドイツ舞台発音』(Deutsche Bühnenaussprache)を出版したことに由来します。この本は長年にわたり標準ドイツ語の発音基準として大きな影響力を持ちました。
背景には、領邦に分裂し方言も多様だったドイツが統一国家となったこと、そして演劇や音楽において、どの地方でも通じる標準的な発音法が必要とされたことがあります。特にリヒャルト・ワーグナーは、言葉が観客に明瞭に伝わることを強く要求しており、その思想は舞台ドイツ語の成立にも大きな影響を与えました。
伝統的な舞台ドイツ語では、Rは原則として前舌による歯茎ふるえ音[r](いわゆる巻き舌)で発音されることが理想とされ、歯茎弾き音[ɾ]も許容されていました。採用された理由は、Rであることが明瞭に聞き取れるためです。声楽のレッスンで「Rを巻け」と言われるのは、この系譜に属します。
もう40年前になりますが、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団において木下保先生(ベルリン芸術大学でヴァイセンボルンに師事。フィッシャー=ディースカウの兄弟子)と畑中良輔先生から受け継がれた発音も、この伝統的な舞台ドイツ語でした。
しかし問題がありました。語中や語尾の-erは[ər]とされていましたが、[ə]の曖昧母音は顎や舌の力を抜いて発音するため、その直後に素早く舌先を持ち上げて[r]の巻き舌を行うのは、ドイツ語母語話者にとっても容易ではありませんでした。
この問題は1933年のジープス諮問委員会(Siebs-Beraterausschuss)でも議論され、戦後の1957年改訂版では口蓋垂ふるえ音[ʀ]も認められました。ご投稿された動画のオーストリア人女性の発音も、この系統の「喉のR」と考えられます。語中や語尾の-erについて、喉を使ったRを許容する指導を受けた方は、この系譜に属すると考えてよいでしょう。
以上、舞台ドイツ語に則るのであれば、Rの発音は巻き舌の[r]または[ɾ]が基本であり、語中・語尾の-erについては[ər]あるいは[əʀ]が用いられます。
一方、一部のご発言の通り、口語の発音はより自然で発音しやすい方向へ変化していきました。また、交通網の発達やラジオ・テレビの普及によって地域差も縮小しました。
現在の標準的な口語ドイツ語では、Rは喉で作る発音が一般的であり、口蓋垂ふるえ音[ʀ]から有声口蓋垂摩擦音[ʁ]まで連続的な変異があります。語中や語尾の-erは母音化して[ɐ]となることが多く、Lehrerであれば日本人の耳には「レーア」に近く聞こえることもあります。
Rは巻かなくてよいという指導を受けた方は、この現代標準発音の系譜に属する可能性があります。ただし「Rを巻かなくてよい」が「カタカナ発音でよい」という意味ではありません。日本語のラ行は歯茎弾き音[ɾ]であり、現代ドイツ語で一般的な[ʁ]や[ʀ]とは異なります。
日本語には「べらんめえ」のような巻き舌[r]は一部に見られますが、[ʁ]や[ʀ]のような喉で作るRは存在しません。そのため、日本人にとっては巻き舌よりも喉のRのほうがむしろ習得が難しい場合もあります。
現代ドイツ語の趨勢としては、日常会話や放送では巻き舌[r]や[ɾ]はほとんど用いられません。動画において「スペイン語みたい」という反応があったのも自然なことです。私がウィーンやベルリンを訪れた際、昔習った通りに巻き舌でRを発音したところ、「ずいぶん古風な発音だね」と笑われたことがあります(実話です)。
ただし歌唱においては事情が少し異なります。現代では口語的な発音の影響が強まっていますが、オペラや歌曲の世界では今なお舞台ドイツ語の伝統も残っており、必ずしも一様ではありません。バイロイトであっても、かつてのような前舌の巻き舌が必ず使われるとは限らない状況です。
このように、Rの発音をどのように扱うかは、舞台ドイツ語を採用するか、現代標準発音を採用するか、あるいはその折衷を採るかによって変わります。歴史的にも複数の規範が存在しており、どれか一つだけが絶対的に正しいというものではありません。
ご参考になれば幸いです
