「当たり前」のことを「当たり前」に – イジメ・差別と闘う(Echotamaのブログ)

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また勝手な独白です。今回は特に長文。しかもますますデリケートな話題になることをお許しください。

私がわざわざデリケートな問題に分け入って文章を書いてしまう、というか、書かなければいけないという気持ちになってしまうのは、いろいろな理由がありますが、大きいのは2点です。一つは私がイジメに遭っていたこと、もう一つは幼馴染みが被差別部落の出身だったということです。

私は小学校の時、運動が全くできませんでした。私たちの世代はまだスポ根時代の延長線上で、運動ができなければ評価されませんでした。中でも運動といえば野球です。クラス対抗、地区対抗など、さまざまな野球行事が組まれていました。毎日放課後は一度家に帰ってカバンを置き、グローブを持って自転車に乗って、校庭に戻って日が暮れるまで練習です。夏休みも毎日地区のチームで練習です。しかも困ったことに私は地区の子供会の会長を押しつけられていて、会長がキャプテンをするのが通例となっていたので、逃げ場がありませんでした。ピッチャーなど論外。内野ゴロは捕れないし、運よく捕れてもファーストへの送球は暴投。外野フライが上がったとき、どこに行けば捕れるのか見当もつかない。打席に立っても球はバットにかすりもしない。一番ヘタクソがキャプテン。当時は「シゴキ」という言葉がありました。「お前はキャプテンなんだからシゴいてやる。特訓だ。残れ!」でも、皆勤賞で練習しても、特訓でシゴかれても、全く上達しませんでした。試合に出してもらったのは代打の1回だけです。「相手のピッチャーは乱れていてストライクが入らない。バットは振るなよ。振ったらヘタクソがバレる。立ったままフォアボールで塁に出ろ」今でも忘れられません。さらし者です。

鉄棒で逆上がりをすることも、跳箱を飛ぶこともできませんでした。「なんでこんな簡単なことができないんだよ!」それができないのです。最後に残るのは私でした。「クラス全員が飛べるように、みんなでXX君を応援しましょう!」クラス全員に囲まれて私一人だけ跳箱を飛ばされます。飛べなくてマットに頭から落ちます。何回やっても同じです。さらし者です。

泳ぐこともできませんでした。25m泳げると水泳帽に1本ラインをつけることができます。6年生になってもラインがないのは私だけでした。泳げないのは一目瞭然です。「お前だけは別」と低学年用のプールで一人だけでひたすら潜りと息継ぎの練習。さらし者です。「いっそ水の中に突っ込めば泳げるようになるんじゃねえか」と無理やりプールに放り投げられたりしました。そんなことがまかり通っていた時代でした。(不思議なことに中学生の時に突然泳げるようになり、高校ではクラス対抗の選手になったのですが)

そんな私が、授業中は工作したり関係ない本を読んだりしながら「先生、それ間違ってます」と議論を吹っかけてやり込めるので、担任からは「お前は変わってる」「お前がいると授業がやりにくい」と言われました。クラスメートは当惑していたようです。あだ名は「天才くん」。「くん」がついていることからおわかりのとおり、これは蔑称です。クラスメートに「おい天才くん、お前、俺たちのことバカにしてるだろう」と取り囲まれます。無視すれば「何も言えねえってことは本当なんだよな」と言われますし、私が「バカになんかしてねえよ」と言い返せば、ムキになる私の態度が面白くてたまらない。しかもクラスで一番運動が苦手という決定的な弱点を持つさらし者ですから、やり返される心配もない。あとは「いや絶対バカにしてるにきまってる」とけしかけ続ければいい。私はまるで中原中也のように、喧嘩も一番弱いくせに、気だけは強いので、最後にはつい手が出てしまう。そうなればむこうの思うツボです。あとは集団でタコ殴り。

ボロボロになって家に帰り、母から「またケンカしたの?」(当時は「イジメ」ではなく「ケンカ」と言っていました)「で、先に手を出したのはどっち?またお前?」日が暮れてから母に連れられてクラスメートの家に謝りに行ったことが何度もありました。タコ殴りされたのはこっちなのに。

現代でも時々「イジメられる側にも原因がある」という言葉が物議をかもしますが、私はまさにそうなのでしょう。小学生の時から、上級生に「お前は生意気だ」とインネンをつけられました。中学はとても居心地が良かった(担任が評価してくれて守ってくれたから)のですが、高校の時も「お前にだけは負けたくない」とか一方的にライバル心を抱かれたり、教師からも評価されるか嫌われるか両極端でした。大学のときも「先輩、その音違ってます」と言ってやはり「俺のことバカにしてるのか!」と倍返し(いや、百倍返し?)されたり、会社でも良かった職場と思い出したくない職場が両極端に存在します。

小学校の時、私をイジメる集団の中にP君がいました。P君は私をイジメる一方で、自分がイジメにも遭っていました。ブルーハーツの歌のように「弱い者たちがさらに弱い者を叩く」ということなのか。私はヒエラルキーの最も下にいました。私より弱い者はいない。私が叩ける相手はいない。いや、私は叩かれる苦しみを知っているからこそ、たとえ自分より弱い者がいたとしても、私は叩かない。私が止めるのだ。私は弱い者の味方になる。絶対になる。子供心に固く誓ったのでした。

一方でその集団に加わらないQ君がいました。Q君は私ほどではないにせよ運動があまり得意ではなく、趣味も似通っていました。Q君の家は零細な町工場を営んでいたのですが、幼い頃はプラレールを段ボール箱に入れて持って行ってQ君のプラレールとつなぎ、作業場兼倉庫で大きなセットを作るのが楽しみでした。高学年になってからは、Q君が夜店で買ってきたトランジスタ1石のラジオにアンテナをつなぎました。私の実家のあたりは難聴地域で、地元の信越放送でも学研の科学の付録のゲルマラジオでは役に立たず、トランジスタ1石でようやくかすかに放送が聞こえるのです。そこにQ君の家で造っているコイルの銅線をほどいてアンテナをつけると、アンテナの作り方によって聞こえ方が変わるので、面白くて夢中になりました。今から考えるとあのコイルはクロスバ交換機のリレーの部品でした。私がQ君の家に入り浸っていることについて、私の両親は何も言いませんでした。

P君とQ君の家は隣で同じ苗字でした。いつしか(というのが怖いことなのですが)P君とQ君の家の地区は被差別部落だということが耳に入りました。私はQ君と遊ぶのが楽しいので気になりませんでした。一方でP君に対しては、弱い者が差別されるという苦しみを知っているはずなのに、なぜ私をイジメるのか納得できず、嫌な奴と思うようになりました。

学校で「同和教育映画」というものを見せられました。小学生向けです。被差別部落の人たちは良い人ですからみんなで仲良くしましょう、というような他愛ない内容です。うそこけ(信州弁)。良い奴も嫌な奴もいる。強い奴も弱い奴もいる。そんなこと「当たり前」だ。子供だましのものを見せるんじゃねーよバカヤロー!

そんな頃、私のクラスでは「誕生日会」が流行っていました。5,6人の友達を呼んでプレゼントを持ち寄って少々お菓子を食べるようなつつましいもので、華美にならないように、と担任から「プレゼントは300円以内」と決められていました。それが、P君から招待されてしまったのです。正直気が進まなかったのですが、断るとまたイジメられそうなので、行くことにしました。そしてP君の家に着いたら、クラスの半分の20人くらいが所狭しと座っていて、テーブルの上にはご馳走が並んでいました。しかも帰りにはお土産ということで男子には1000円以上はするSLのプラモデルを全員渡されました(女子は覚えていませんが、おそらく高価なもの)。P君のお母様は、お土産を一人一人渡しながら「本当にみんな来てくれてありがとね、ありがとね」と言って泣き続けていました。「当たり前」が「当たり前」でなかったのだと、重く背負ってきたものがあるのだと、その涙を見てわかりました。P君に対する思いは多々あれど、私はP君の側に立とう、立たなければいけない、と思いました。

その後、いろいろな場面で、私の脳裏にP君のお母様の涙が浮かんだのは言うまでもありません。

親の金でお坊ちゃん大学に行って大企業の管理職になったお前に何がわかるんだよーと言われると思います。「俺のことバカにしてるだろう」と言われ続けてきたお前がどのツラさげてきれいごと言ってんだよーと言われても仕方がないと思っています。ただ、銃弾とクスリが飛び交う町に育ち、少しは裏社会のことがわかるという幸運に恵まれました。身内に高級官僚も政治屋もいました。労働組合を経験して赤い旗にくるまれて荼毘に付された人たちがいたことも知りました。

イジメる側よりもイジメられる側の方に、
強い者よりも弱い者の方に、
差別する側よりも差別される側の方に、
支配する側よりも支配される側の方に、
虐げる人よりも虐げられる人の方に、
元気な人よりも病める人の方に、
健常者よりもハンディを持っている人の方に、
苦しまない人よりも苦しんでいる人の方に、
恵まれている人よりも恵まれていない人の方に、
富める人よりも貧しい人の方に、
理解されている人よりも理解されていない人の方に、私は立ちたい。
それが「当たり前」が「当たり前」になるために必要なことだと、私は信じています。



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